YMO「君に、胸キュン


気がつきゃゴールデンウィークも今日が最終日。
夢の
4連休なんてのも、
過ぎてしまえば夢のまた夢ってなもんだ。

いま世間ではハンカチ王子こと
早大の斎藤佑樹投手に耳目が注がれているが、
いまから
25年前、ギャルたちを熱狂された甲子園のヒーローが
今日
43歳の誕生日を迎える。

早稲田実業からヤクルトに入団し、
現在は西武ライオンズのピッチングコーチを務める荒木大輔氏である。

荒木氏は1980年に早稲田実業に入学。
1年生ながらエースとして夏の甲子園を投げぬき、
早稲田実業を決勝まで導いた。
愛甲猛を擁する横浜高校に破れ、優勝こそ逃したものの、
その力投と端正なマスクから一躍「大ちゃんフィーバー」がはじまった。

その後、早稲田実業は春夏
5季連続で甲子園に出場。
3年生の夏、最後の甲子園では準々決勝で
水野雄仁をエースとする徳島の池田高校に破れ、
「大ちゃん」は甲子園を去った。

その秋のドラフトでヤクルトが指名権を獲得。
大のヤクルトファンだった僕は、
荒木氏の入団を心から喜んだものだ。

プロ入りしてからも「大ちゃんフィーバー」は衰えず、
荒木氏を囲むファンの混乱を避けるため、
神宮ではクラブハウスと球場とを結ぶ地下道をつくった。
これは「荒木トンネル」と呼ばれ、
今日も選手が球場入りするときには使われている。

荒木氏はプロ入り4年目の1986年に先発ローテーション入りし、
翌年には
10勝を挙げた。
しかし、
88年のシーズン途中にヒジを傷め、
アメリカで名医フランク・ジョーブ博士による手術を受けた。
さらに
91年には椎間板ヘルニアの手術も受け、
かつてのエース・荒木氏不在のまま、
野村監督率いるヤクルトは
14年ぶりの優勝を目指し、
阪神との熾烈な優勝争いを繰り広げていた。

そして迎えた1992924日、
荒木大輔が丸
4年ぶりにマウンドに帰ってきた。
僕はこのときのことを思うと、
いまも目頭が熱くなってしまう。
いまこの文章を書いている最中にも、
涙がうるんできてしまった。

ウソではない。

それほど荒木氏の復活はうれしかった。
まさに夢のような復活劇であった。
僕は翌日のスポーツ紙を全種買った。
さらには荒木氏の復活劇が掲載された“週刊ベースボール”まで買った。

荒木氏の復活劇の翌日、朝日新聞に掲載された
西村欣也氏のコラムは、歴史に残る名文であった。
僕はその朝、西村氏の文章を泣きながら読んだものだ。

荒木氏の奇跡の復活がカンフル剤となって
そのシーズン、ヤクルトは見事
14年ぶりに優勝した。

翌年も荒木氏は8勝を挙げ、連続優勝に貢献。
さらに西武との日本シリーズでは初戦に先発し、勝利投手となり、
この年の日本一にも大きく貢献した。

だが残念なことに1995年は一度も1軍での登板がなく、
ヤクルト時代の先輩だった大矢新監督に拾われるかたちで
横浜へ無償トレードとなった。
新天地・横浜でも荒木氏は結果を残すことができず、
96年プロ生活にピリオドを打った。

通算成績
39492セーブ。
180試合に登板して奪った三振数は359、防御率は4.80であった。

引退後は解説者を経て、アメリカにコーチ留学。
その経験を活かし
2004年から西武のコーチを務めている。

僕は荒木氏にお会いしたことはないが、
実に物腰がやわらかで誠実なお人柄だという。

あれだけ若い頃から騒がれていて、
そういう人であり続けるのは、
なかなかできることではない。

実際、まわりで
荒木氏の悪口ややっかみをいう人はいなかったそうだ。

そんなこともあって僕は人間・荒木大輔の大ファンである。
できれば将来、ヤクルトに戻ってきてほしい。
それがダメなら、全日本の監督になってほしい。
いちヤクルトファンの切なる願いである。

この荒木氏の奥さんは、相田寿美緒さんというモデルだった人だ。

この人がモデルを務めた
1982年カネボウの夏のキャンペーンソングが
山下久美子の『赤道小町ドキッ!』である。

さらに相田寿美緒さんは、
翌年夏のキャンペーン『君に、胸キュン』
(キャンペーンソングはYMO)でも
キャンペーンモデルを務めている。

まさに時代を飾った女性である。

荒木大輔氏と相田寿美緒さんの結婚は、
人気スポーツ選手と人気モデル
(タレント)の結婚の
さきがけだったといっても過言ではあるまい。

YMOの『君に、胸キュン』といえば、
そのなかの「僕はいえば柄にもなくプラトニック」
(作詞・松本隆)というフレーズを、
まるで自分のことのように聴いていたことを、
ちょっぴり酸っぱい気持ちで憶えている。


2007.05