とんねるず「情けねえ」


51日といえばメーデーである。
最近は
4月の休日中に祭典を行う労働組合も多いらしいが、
歴史的に見てもメーデーといえばやはり
51日であろう。

メーデーは188651日に、
シカゴを中心に労働者たちが
8時間労働制を要求するデモを行ったのが起源とされている。
当時は
112時間から14時間労働が当たり前で、
「第一の
8時間は仕事のために、第二の8時間は休息のために、
そして残りの
8時間は自分の好きなことのために」を目標に運動が展開されたという。


その後
1889年、第二インターナショナル創立大会において、
189051日に8時間労働実現のためにデモを行うことが決議され、
その歴史は今日に至っている。

僕は労働組合というものをまったく知らずに働いてきた。
労働組合があるような大きな会社で働いたことがなったのである。
そんな僕が労働組合について
一生懸命に勉強せざるを得なくなったのが
1996年である。

12月近い週末、僕は当時勤務していた会社の社長に呼ばれ、
1枚の書類を見せられた。
団体交渉の要求書だった。
一人の社員が個人でも加入できる労働組合に加入し、
突如として要求書を送ってきたのだ。

要求は14項目にわたっていた。
4年間にわたり積み立てられっぱなしになっていた
社員旅行の積立金の全額返還や年に
1度の健康診断の実施など、
たしかにこの要求は妥当だなと思うものもあったが、
なんだコレは
!!と思うものもあった。

その最たるものが、過去
2年間にさかのぼって
残業代と休日出勤手当てを支払えという要求である。

広告制作にたずさわっている人間の仕事は、
毎日
9時から5時までの定時勤務というワケにはいかない。
そんなことは百も承知で本人もこの業界に身を置いているはずである。
にもかかわらず、そのような要求を突きつけてきたのだ。
大急ぎで調べたら、組合からの団体交渉要求にはキチンと応じないと
不当労働行為になるという。
突如として、僕は労働争議に巻き込まれてしまったのだ。

12月のある土曜日、
僕ははじめて団体交渉というものを体験した。
目の前にいる女性デザイナーは、
もはやクリエイターではなく闘士だった。
このとき彼女は
30代前半、独身でひとり暮らしであった。

ある宗教団体がいちばん洗脳しやすいターゲットとして、
彼女の状況と同じことを挙げていた。
敵対心まる出しで会社に要求を次々と突きつける彼女を見て、

彼女労働運動に洗脳されてしまったのだと思った。

その後も団体交渉の要求は執拗に続いた。
結局、残業代の不払い問題は団体交渉の場で決着がつかず、
裁判に持ちこまれた。

僕も東京地裁に呼ばれた。

テレビでしか見たことのない裁判所の法廷。
まさかその場に自分が立つことになるなんて、
夢にも思っていなかった。

法廷に入る前には誓約書に署名捺印させられ、
一礼させられた。
そして、被告人証人として発言する前に、
先ほど自分が署名捺印した誓約書を一読させられた。
まさにドラマで見た法廷シーンそのものであった。

被告側弁護士による尋問に続き、
原告側弁護士による尋問がはじまった。
とにかくネチネチとした質問が続き、
僕は不用意な発言をしないように全神経を集中させなければならなかった。
相手弁護士の、僕に不利な発言をさせようさせようという意図が
質問の端々から読み取れたからだ。

原告側弁護人による尋問は約1時間にわたり続いた。
尋問が終わった後、証人である僕は退廷させられたのだが、
ヘロヘロに疲れきっていた。
とにかく外の空気が吸いたいと、
逃げるように東京地裁を出たことを憶えている。

裁判は最終的には和解勧告がなされ、
彼女に対していくばくかのまとまったお金が支払われた。
しかし、それは彼女が当初要求していた金額の
3分の1程度であった。

信じられないことに、その後も彼女は会社に居続けた。
何ごともなかったかのように働き続けていた。
そうしているうちに社長も他の社員も
彼女に対して態度を軟化させていた。
彼女の一連の労働争議の矢面に立たされ続けた僕からすれば、
このことなかれ主義は許せなかった。

なんだったんだ!!と思った。
すべてがバカバカしく思えた。

そして、僕は
15年間勤めたその会社を退職した。

彼女が入社してきたのは1991年の夏ごろだったと思う。
歓迎会は、当時仲間たちとよく行っていた
旧自衛隊市ヶ谷駐屯地近くにあったウォッカ専門店だった。
そこで彼女はとんねるずの『情けねえ』を唄っていた。

彼女はまだあの会社にいるのだろうか?
いたらビックリだけど、いても不思議じゃないところがすごい。


2007.05