高橋ユキヒロ「フラッシュバック」


今日は66日。
映画“オーメン”でおなじみの悪魔の子・ダミアンの誕生日である。
な〜んてことをいってはいけない。
今日は僕の義理の妹の誕生日でもあるのだ。
ほかに誰がいるかなと思って調べてみたら、
YMOの高橋ユキヒロ(現幸宏)66日生まれだった。

YMOの面々はYMOの活動と並行してさまざまなソロ作品を発表したが、
僕は高橋ユキヒロのソロ作品がいちばん好きだった。
なかでも
1980年にリリースされたアルバム“音楽殺人”と
1982年にリリースされたミニアルバム“ボク、大丈夫!”がお気に入りであった。

“ボク、大丈夫!”に『フラッシュバック』という曲が入っているのだが、
坂本龍一作曲のこの歌を想うとき、いつも想い出すことがある。

この曲は「あのころは毎日が夢のようで 馬鹿げたことばかりいつでも繰り返した」
という歌詞が示すとおり、過去を回想
(フラッシュバック)した曲である。
この曲をよく聴いてた当時、僕は高校
2年生。
この曲を聴きながら、僕もいつか大人になったら
こんな風にいまを想い出すことがあるのだろうかとよく考えたものだ。

当時、よくつるんで遊んでいた仲間の1人にヒガシヤマというヤツがいた。
ヒガシヤマは実家がお寺なのだが、
次男坊ということもあって好き放題のことをやっていた。
僕らが通っていた高校は、
バイクの免許を取ってはいけないという校則があったのだが、
ヒガシヤマはそんなものどこ吹く風で免許を取得し、
バイクを乗り回していた。

ある日、それが学校にバレ、
ヒガシヤマは免許を学校に没収されたうえ停学処分を受けた。
そしてその夜、ヒガシヤマは家出した。

1週間後、ヒガシヤマは帰宅した。
どこに行っていたかというと大阪に行っていたという。
野宿して大阪をウロついていたらしいのだが、
ついに所持金が
200円しかなくなってしまい、
やむなく帰宅を決意したという。
しかし
200円ではいかんともしがたい。
そこでヒガシヤマは、驚くべきことにヒッチハイクで帰ってきたのだ。

家出して、ヒッチハイクである。
僕はヒガシヤマを凱旋将軍のような目で見たものだ。

その後もヒガシヤマは免許不携帯のまま、時折バイクを運転していた。
学校の試験が終わったある日、
僕らは試験終了の打ち上げをしようと僕の家に集まっていた。
来るはずの
1人が集合時間になっても来ないので、
様子見がてら僕とヒガシヤマがバイクで迎えに行くことにした。

仲間の1人が乗ってきた50ccのバイクに2人乗りし、
僕とヒガシヤマは意気揚々と出かけた。
試験が終わった。
今日は飲み会である。
気持ちは完全に浮かれまくっていた。

予期せぬことはたいがいこういうときに起きる。
浮かれ気分でバイクを走らせ、
坂道を登りきった先に警察がいたのだ。

僕らは慌てて
Uターンした。
ヒガシヤマは免許不携帯なのである。
捕まったら最後、僕もただでは済まない。

パトカーはサイレンを鳴らして背後から迫ってきた。
ヒガシヤマは僕に「降りろ
!!」と怒鳴った。
僕は飛び降り、全速力で近くの民家へ逃げ込んだ。
ヒガシヤマは
50ccのバイクを全速力で飛ばし、
追いかけるパトカーともども僕の視界から消えていった。

幸いにして、僕を追ってきた警官はいなかった。
僕は犯罪者のような目つきであたりを見回し、
警官がいないことを確かめ、
とりあえずは自分の家を目指して歩き出した。

いまのように携帯電話などない時代である。
僕とヒガシヤマが落ち合うとすれば、僕の家しかない。
しかしヒガシヤマがパトカーを振り切れる、
その保証はどこにもなかった。

いいようのない不安が僕を襲い、胃が痛くなった。
痛む胃を押さえながら、ホテホテと家に向かって歩いていたら、
前方から見覚えのあるバイクがやってきた。
ヒガシヤマであった。
ヒガシヤマは見事
50ccのバイクで、パトカーを振り切ったのだ。

僕は再び凱旋将軍を見るような目で、ヒガシヤマを見た。
そしてその夜は、ヒガシヤマと美酒に酔いしれた。

「あのころは毎日が夢のようで 馬鹿げたことばかりいつでも繰り返した」


ヒガシヤマはその後、お兄さんが実家のお寺を継がなかったため、
和尚さんの道へと進んだ。
15年前に2歳年上の美しい女性と結婚し、2人の子どもにも恵まれた。

なかなか会う機会がなく、かれこれもう5年ぐらい会っていないが、
僕のなかではかけがえのない親友の1人である。

高校時代をフラッシュバックするとき、
そこにはしょっちゅうヒガシヤマの顔がある。


2007.06