少女隊「BYE-BYEガール」

日本酒といえば、
僕が最初にお酒を飲んで記憶をなくしたのも、
日本酒を飲んでのことだった。

あれは
1985年の冬、僕は先輩と水道橋界隈で飲んでいた。
そのときに先輩に勧められた樽酒を飲んだ。
樽酒はよく冷えていて
普通の日本酒よりけっこう美味しく感じられたので、
23杯飲み店を出た。

この時点で僕はまだシャキッとしていた。

僕と先輩は中野坂上にある僕のオンボロアパートに向かっていた。
僕の部屋で佐野
(元春)くんのビデオを見ようということになったからである。

僕のオンボロアパートにビデオデッキが完備されたのは、
この年の
115日、成人の日である。
この日、不世出のラグビーの天才
新日鉄釜石の松尾雄二の引退試合が行われていた。
僕は届いたばかりのビデオデッキをセットし、
松尾の引退試合を録画したことを憶えている。

そしてその数日後、前々から欲しいと思っていた
佐野くんのビデオソフトをディスクユニオンで買ったのだ。

その話を飲みながら先輩にしたところ、
さっそく観に行こうということになり、
中野坂上駅前の青梅街道を先輩と
2人でホテホテと歩いていた。

僕らが歩いていた向かい側に、居酒屋の“村さ来”があった。
僕は一度も入ったことがなかったのだが、
先輩が「おっ!タカハシ、あそこに村さ来があるじゃないか
!!
ちょっと寄っていこう」というので、
誘われるがままにお店の暖簾をくぐった。

ここから僕のオンボロアパートまでは、
7分ぐらいの距離であった。
どうせ、朝まで飲みながらビデオを観るのだ。
ちょっと寄り道したところで、どうってことなかった。

!! この先は、もはや断片的にしか憶えていない。

たしか熱燗を飲んでいた。
憶えているのは、それだけだ。
いつどうやって店を出たのかすら憶えていない。

さらに僕らはそのあと、
僕のオンボロアパートのすぐ近くにある
カウンターだけの居酒屋に入った。
ここでの記憶も断片的である。

気がついたときは、僕は自分の部屋のベッドに寝ていた。
翌日のお昼近くだった。
体中の水分が吹き飛んだような、
猛烈なノドの乾きで目が覚めた。
僕はどうやって帰ってきたのだろう?
僕がゴソゴソと動き出したのに気がつき、先輩も起きた。

先輩がいうには、村さ来を出たあと僕がもう一軒行こうといい、
3軒目のお店に入ったという。
ヘベレケ状態の僕は、
3軒目のお店を出たあと、
路上に止めてあった車を殴りだしたらしい。

もはや狂気の世界である。
警察に通報されなくてよかったと僕は先輩の話を聞きながら思った。

さらに僕はアパートの階段の最上段から真っ逆さまに落ちたという。
まさに映画“蒲田行進曲”のヤスである。
真夜中の階段落ち・・・さぞかしアパートの住人もビックリしたであろう。
ケガをしなくてよかったと思った。

当時、僕が住んでいたオンボロアパートの近くにあったのが、
芸能人たちもよく通っていた堀越学園である。
僕も何度か芸能人に会ったことがある。
そのなかでいちばん印象に残っているのが
少女隊のミホとレイコだった。

この少女隊のデビュー当時のもう1人のメンバーが、
上記の先輩の友だちの妹だった。
そんなこともあり、少女隊については
僕と先輩の間でよく話題になっていたものだった。

僕らは少女隊の、その高い音楽性を評価していた。
なかでも
19858月にリリースされた『BYE-BYEガール』は、
モータウンサウンドの黄金律をとり入れたポップな曲で、
僕も先輩も絶賛していた。

少女隊はこの曲のリリース前後、
先輩の友だちの妹が健康上の理由のため脱退。
かわりに初代・引田天功の娘が加入した。

新メンバーでリリースされた『ハレーロマンス』もなかなかいい曲であったが、
僕のなかでは少女隊が音楽的に素晴らしかったのはここいらまでで、
あとはあまり夢中になれる曲がなかった。
そしていつの間にか、少女隊に対する興味も薄れていった。

少女隊のメンバーは1969年生まれなので、今年で38歳である。
いまも芸能活動を続けているのか、
それとも引退してしまったのかはわからないが、
素敵な女性になっているといいなと思う。

それにしても、間近で見た少女隊のミホとレイコは、
ホントにかわいかったんだから。


2007.05