坂本九「上を向いて歩こう」


一昨日から朝日新聞の夕刊に
ノンフィクションライターの吉岡忍氏のインタビューが掲載されている。
ノンフィクションは大好きなジャンルなので、
以前からさまざまな本を読んできたものだが、
吉岡氏の作品もいくつか読ませていただいた。

なかでも僕がとても印象的だったのは
26歳で早世したロック歌手の尾崎豊について書かれたものである。
それは尾崎豊の歌詞のなかに見え隠れする彼の独善性について書かれたもので、
僕が知る限り尾崎豊についてそのような視点で書いた人は吉岡氏ただ
1人であった。

尾崎豊と僕は同学年である。
同じ時代を同じ年齢で生きてきただけに
尾崎豊の唄っていることはわからなくもなかったが、
僕には少し違和感があった。
その違和感は、なんかヒロイズムに酔いすぎてねぇか
?というものだった。
まるで自分
1人だけが周りから理解されず、
悲劇の主人公になっているかのように聴こえたのだ。
ぶっちゃけたところ「甘ったれんなよ」という印象を受けたのである。

話はそれてしまうが、ボクサーの辰吉丈一郎は、
いわゆる世間的には不良だった自らの少年時代を振り返って、
かつてテレビ番組で「だけど、ひねくれてはいませんでしたね。
よく、親や教師に対して『わかってくれない』ってゆうてるヤツがいますけど、
そんなんオマエがわかってないだけや思うてましたね」
というようなことを語っていたのを憶えている。

この辰吉の言葉は、
僕が尾崎豊に対して抱いた印象とまったく一緒である。

そうした僕のなかの違和感を、
スパリと文章にして切ってくれたのが吉岡氏の尾崎豊論だった。

そんなこともあったので、
朝日新聞のインタビューも興味津々で読ませていただいている。

一昨日、昨日のインタビューの内容は
1985年の日航機墜落事故の取材時についてだった。
記事によると日航社員として
ただ
1人の生存者であった女性に取材するために吉岡氏は入院先の病院に何度も足を運び、
自分が何者であるのか、自分は何を聞きたいのかをその都度手紙に書いて、
看護婦さんに託したという。
そうした積み重ねによって吉岡さんは唯一取材に応じてもらえた。
このことについて吉岡氏は
「ぼくがそんなに優れているとは思わないけど、
同じようにしようとしても絶対できない。
僕が誰かのまねをしようとしても、できない。
一人一人の個性があるとすれば、
そういうところでしか発揮できないと思うんです」
(20081117日付・朝日新聞夕刊より抜粋)と語っていた。

また昨日の夕刊の記事では事故後、
日航本社を取材したことについて語られていた。
ほとんどの報道陣が事故現場に向かったなか吉岡さんはただ
1人、
日航本社を取材した。
最初は吉岡さんも事故現場に向かったそうなのだが、
泊まるところもない場所に
1人で行っても何もできない。
足が震えてしまいだめだと思って東京に帰り
日航本社に取材に向かったところ、
メディアサイドの人間は誰
1人として来ていなくて独占的に取材ができたという。
この吉岡氏の取材は事故直後、
日航本社内はどういう状況だったのかを後世に残す貴重な資料となった。
この取材について吉岡氏は
「太陽の黒点みたいなものがある。みんな、わあっと光ってるときに、
光ってない黒点を探すわけです。日航の本社って、黒点だったんですよ」
(20081118日付・朝日新聞夕刊より抜粋)と回想していた。

さらに昨日の夕刊において吉岡氏は
遺体の身元確認にあたった医師や歯科医を取材したことについて、
このように語っている。
「四十九日法要が終わると、メディアは誰もいない。
(中略)医者も歯医者も四十九日までは何も話してないんです。
でも、人間、だてに四十九日を決めているわけじゃなくて、
過ぎた瞬間に語り始める。いろんな事件を調べると、そうなんです。
だから、四十九日が過ぎるのをひたすら待つ。
そのとき誰も取材に来ていない。ぼくだけですよ。
歯医者さんを一人一人訪ねました」

記事によると吉岡さんはそのなかの1人と先日、
新幹線のなかで偶然再会したという。
そのときの会話について吉岡氏は
「あの事故は思い出したくないとか、そういう話じゃない。
あれは自分の人生の重要な一場面であって、
ここまで見ておけば大抵のことは怖くないっていう感じが、
彼らにもあるんじゃないですか。
(中略)人間が生きてきた歴史の中で、
ああいう場面がいっぱいあっただろうと思う。
頭の中の知識としてだけじゃなくて、
自分も見てきたよな、っていう経験が、
ある種の重しになっている感じはありますね」と語っていた。

僕はこの記事を読んで、うーむと唸らされた。
僕はヘナチョコな野郎なので、とてもじゃないがこんな風には考えられない。
他人の死も病もケガも怖い。
できることなら自分が死ぬときまで
1人として目の前でこんなことは起きてほしくないと考えている。
人間生きていれば、親しい人が大病をしたり、大ケガをしたり、
あるいは亡くなったりという経験は多かれ少なかれあると思う。
が、僕はその経験が著しく乏しい。
たとえば
42歳の今日に至るまで、僕は臨終の場にいたことがない。
経験していないことだけに恐怖も大きい。

でも生きている以上そういったことも起こり得るわけで、
そこだけを避けるわけにはいかない。
想像もしたくないような絶対にイヤなことではあるが、
もし僕のまわりでそんなことが起きてしまったときは、
それをマイナスに考えるのではなく、
吉岡氏のインタビュー記事にあるように
人生の重要な一場面と考えるようにしようと思った。
生きていく上でのヒントをまたひとつ得たと思った。

日航機墜落事故で亡くなった方の1人が
「九ちゃん」こと坂本九さんである。
夕刊の記事の内容を思い出して九ちゃんを偲びつつ、
全米ナンバーワンヒットにもなった九ちゃんの代表曲
『上を向いて歩こう』のメロディラインをアタマのなかで奏でながら
昨夜は東京ドームへと出かけた。

ビリー・ジョエルのコンサートに行ってきたのである。

ビリー・ジョエルは
30年前から大好きだったのだが
一度もコンサートに行ったことはなかった。
一昨年に来日した際、今度こそは絶対に行こうと思っていたのだが、
当時はまだサラリーマンだったので会社のことを優先せざるを得ず、
泣く泣くあきらめた。

そんな僕を哀れんで、
友人がパンフレットとビリー・ジョエルの初期の名曲
Only the Good Die Young(若死にするのは善人だけ)という文字が書かれた
バッヂを買ってきてくれた。
やはり持つべきは友とありがたくいただきつつも、
後日テレビで放映されたコンサートの模様を観て、
そのあまりの素晴らしさに「仮病を使ってでも行くべきだった」と
猛烈に後悔したことをつい昨日のことにように憶えている。

昨日の朝刊に当日券があるとの広告が出ていたので客の入りを心配していたのだが、
そんな心配はまったく無用で東京ドームはスタンドの最上段までほぼほぼ満杯だった。
コンサートの内容についてはもはや何もいうことはない。
ただただ素晴らしかったというだけである。

演奏された曲目は2年前のコンサート時と大きくは変わらなかった。
オープニングの『ストレンジャー』から『怒れる若者』『マイライフ』と続き、
アンコール前の『ガラスのニューヨーク』までまさに名曲・ヒット曲のオンパレード。
ビリー・ジョエルのコンサートを体験するまで
30年かかってしまったが、
逆に
30年待ったからこそこうして名曲の数々を生で聴くことができたのだと思いながら、
僕は至福の時間にひたった。

コンサートで特に印象的だったのは、
ステージ上でピアノの向きが回転して変わるたびに
ビリー・ジョエルがピアノの上に置いてあった飲み物類を
客席と反対側にいちいち律儀に動かしていたことである。
そんなビリー・ジョエルを観ながら
プロのエンターティナーとしての心遣いを感じるとともに、
1人の人間としてのやさしさを感じた。
本当にいい人なんだろうなと思った。

ビリー・ジョエルの代表曲の1つである『素顔のままで』は、
最初に結婚した奥さんに捧げた曲といわれている。
そのため
2度目の結婚をした際に、
再婚相手だったスーパーモデルのクリスティ・ブリンクリーを気遣って
この曲はしばらくステージ上で演奏されることはなかった。

僕がビリー・ジョエルのエピソードでいちばん好きな話が、
この時期の話である。
雑誌で読んだのだが、この再婚相手のクリスティはベジタリアンだったらしい。
そのせいもあってビリー・ジョエルも菜食生活を送っていたという。
そんななかある日、
ビリー夫妻はレコード会社だかプロモーターだかに食事に招かれた。
その席でクリスティがトイレに立った次の瞬間、
ビリー・ジョエルは「食べたかったんだよぉ」といいながらお肉を食べはじめたという。

上等の肉料理どころか牧場ごといくつも買えるであろう
天下のビリー・ジョエルが奥さんにバレないように肉をほおばっているのである。
前述のとおり雑誌で読んだだけなのでホントの話なのかつくり話なのかはわからないが、
なんとなくビリー・ジョエルという人の人間性が伝わってくる
ほほえましいエピソードだと思い、ずっと憶えていた。

昨日のコンサートでも『素顔のままで』はもちろん演奏された。
演奏された曲のなかですごくうれしかったのは
『ドント・アスク・ミー・ホワイ』の前に、
伝説のロックンローラー、バディ・ホリーの
『ノット・フェイド・アウェイ』が演奏されたことである。

ビリー・ジョエルが本当は
The Boss”ブルース・スプリングスティーンのようなスタイルの
ロックンローラーになりたかったという話をこれまた雑誌で読んだことがある。
ピアノマンではなくて、
本当はギターをかき鳴らしながら演奏したかったというのだ。

この話を読みながら僕の脳裏に浮かんだのが、
佐野
(元春)くんがデビューするときのことである。
佐野くんのデビューにあたり
ビリー・ジョエルのようなピアノの弾き語りスタイルでデビューするか、
またはスプリングスティーンのようなロックンロールスタイルでデビューするか、
2つの方向性で話し合われていたという。
そして佐野くんは「僕はロックンロールがやりたいんです」といって、
スプリングスティーンのようなスタイルでデビューした。
そしてその後、佐野くんが築いた路線をうまく踏襲し、
「怒れる
10代のカリスマ」というイメージで
スターダムにのし上がったのが尾崎豊である。

ビリー・ジョエルの魅力について、
佐野くんは以前「メロディラインの美しさ」と語っていた。
僕も同感である。
ビリー・ジョエル本人にすれば、
ピアノマンのスタイルは不本意だったのかもしれないが、
そのおかげで僕たちは
後世にまで語り継がれるであろう数々の名曲を聴くことができたのである。

数あるビリー・ジョエルの名曲のなかで1曲だけ挙げるとすれば、
僕は『アレンタウン』に
1票を投じる。
次々と工場が閉鎖されていってしまうさびれた街について唄われたこの曲は
1982年に発表されたアルバム“ナイロン・カーテン”に収録されていた曲で、
昨日も演奏してくれた。
この“ナイロン・カーテン”の発表に際し、ビリー・ジョエルは
「このアルバムは僕にとっての“サージェント・ペパーズ”だ」と
ビートルズの大傑作アルバムを引き合いに出し語っていた。
この言葉からもかなりの意欲作だったことがうかがえる。
が、チャート的には大ヒットとはいかなかった。
ベトナム戦争や不況といった「病めるアメリカ」をテーマにしてつくられたアルバムは、
商業的には大成功とはいかなかったのである。

しかし、売れなかったものがダメなものとは限らない。
内容はいま聴いても素晴らしい。
ただ、当時のビリー・ジョエルが「病めるアメリカ」を唄ったことに対し、
多くのファンは戸惑いを覚えたのだと思う。
ビリー・ジョエルに対して失礼ないい方になってしまうかもしれないが、
ファンはビリー・ジョエルに対しシリアスな内容の歌ではなく
メロディラインの美しい、明るく楽しいポップソングを求めていたのではないだろうか
?

事実、この“ナイロン・カーテン”の後、
わずか
6週間で制作されたといわれるアルバム“イノセント・マン”は、
50年代〜60年代のフレーバーたっぷりのポップな作品で、
アメリカはおろかイギリスでも大ヒットし、
全世界で
800万枚を超える大ヒットとなった。

これは僕の仮説なのだが、
1984年に発表されたスプリングスティーンの『ボーン・イン・ザ・USA』は
『アレンタウン』にインスパイアされてつくられたのではないかと思っている。
『アレンタウン』を聴いてスプリングスティーンは
「これこそ、オレが唄うべきテーマ」と思ったのではないかと思うのだ。

昨日のコンサートでは、アンコールで『若死にするのは善人だけ』を演奏した後、
ビリー・ジョエルは
2年前と同じように
『上を向いて歩こう』のメロディをピアノで奏でた。
そして『ピアノマン』を演奏し、コンサートは終わった。

外タレのコンサートにしては珍しく、
ほぼ開演時刻どおりの
19時ちょい過ぎにはじまったコンサートは21時前に終わった。
まさに夢のような
2時間であった。

それにしても今年はなんと素晴らしい1年なのだろうと思う。
2月には原田芳雄さんのライブに行けた、
4月にはチープ・トリックが武道館で30年ぶりにコンサートをしてくれた、
8月のポール・ウェラーのライブには行けなかったが、
昨日のビリー・ジョエルのコンサートには行けた。
実に素晴らしい。素晴らしすぎる年である。

願わくばこの素晴らしさは来年も続いてほしい。

来年、スプリングスティーンが来日してくれないかな。


2008.11