西郷隆丸「昭和の西郷どん


そもそも上野公園の歴史は、
徳川三代将軍の家光が鬼門である丑寅
(北東)方向を封じるため、
この地に寛永寺を建てたのが始まりとされている。

1868年の戊辰戦争では、
旧幕臣の渋沢成一郎や天野八郎らによって結成された彰義隊がこの地に立てこもり、
長州の大村益次郎率いる新政府軍により焼け野原にされた。
このときの戦いにより戦死した彰義隊士たちの遺体を、
新政府軍はこともあろうに回収すら禁じた。

この戦いの後の会津戦争でも新政府軍は、
会津の人々の遺体回収を禁じている。

会津若松市飯盛山にて、
白虎隊士の慰霊祭を春と秋に開催している財団法人会津弔霊義会の理事のひとりは、
以前僕にこう語っていた。
「戦争である以上、勝ち負けがあるのは仕方ない。
しかし、勝ったほうが負けた側に対して遺体を片づけてすらならぬというのは、
いくらなんでもいき過ぎである。
だからオレはいまだに長州は許さない」と。

僕も同感である。

薩摩藩にしても、やっていることはめちゃくちゃだ。

彰義隊との上野戦争にしても、
江戸市中の取締りの任を受けていた彰義隊の活動を、
薩摩藩が密かに組織した御用盗が妨害し、
江戸各地で放火・強盗を繰り返した。
そして挙げ句の果てにはその濡れ衣を彰義隊に着せ、
暴徒化した彰義隊を旧幕府側だけでは
もはやコントロールできないという建前をでっち上げ、
新政府側が彰義隊の武装解除を宣告。

これが上野戦争の発端となった。

新政府の完全なマッチポンプである。

野ざらしにされた彰義隊士たちの遺体を見かねた
三ノ輪円通寺の二十三世仏麿和尚が、
斬首覚悟で上野に供養に出かけたことから、
ようやく戦死者供養の許しを得ることができ、
いまも彰義隊士たちは円通寺に眠っている。

上野公園内の西郷像のうしろには
彰義隊の遺体が火葬されたといわれるところに墓所があり、
以前は彰義隊の記念館があった。
この記念館は、墓所の建立に奔走した
彰義隊天王寺組頭だった小川
興郷のご子孫が、
この地に住み込み長年管理なさっていたのだが、
体調不良のためお引越しをされることになったのに伴い、
2003年に閉鎖された。

その閉鎖のニュースを聞き、僕も閉鎖前に行かねばと思い、
20055月のある土曜日に出かけていった。
当日は朝
8時から江東区の新砂でサッカーの試合を2試合こなし、
その足で僕は上野公園へと向かった。

ジャージ姿に、大きなスポーツバッグ。
公園へ向かう階段口で、そんなナリをした僕をみかけた怪しげな男が
「兄ちゃん、仕事あるか?」と声をかけてきた。
きっと、家出人と間違えたのであろう。
間違えられる僕も僕だが
()

彰義隊記念館は、最後ということもありかなり混雑していた。
新撰組を愛する者にとって彰義隊は仲間、同志である。
僕は混雑している彰義隊記念館のなかで、
彰義隊を偲んでくれている人たちが
これほどいるとうれしく思ったことを憶えている。

僕はアカデミックに歴史を研究しているわけではないし、
著書があるわけでもない。
ただのいち個人ではあるが、
これだけは声を大にしていいたい。

戊辰戦争の敗者たちは決して賊軍ではなかった、と。

そして長年にわたり、
上野公園の地で彰義隊の菩提を弔ってくださっていた小川家の方に、
心から敬意を表したいと思う。
聞けば彰義隊記念館の維持費は、
すべて小川家の持ち出しだったそうだ。

こんな歴史的に貴重な史跡に対して、
なんの手も差し伸べなかったとは東京都もひどいもんだ。

それから、彰義隊の墓所にお尻を向けている
西郷隆盛
(の銅像)もいかがなものかと思う。
西郷隆盛といえば、以前みうらじゅんが紹介していた
西郷隆丸という人の『昭和の西郷どん』というレコードを想い出す。

このレコード、ジャケットは何度も見たことがあるのだが、
歌は一度も聴いたことがない。
いったい、どんな歌だったのであろう?


2007.05