レインボー「アイ・サレンダー」


一昨日の51日、
予定していた打ち合わせが先方の都合で急に中止になった。
思いがけず、ポッカリ時間が空いたのだ。
これはまさに天からのご褒美。
この時間を有効に使わせていただこうということで、
東京タワーへと出かけた。
蝋人形館に行こうと思ったのだ。

都営三田線で御成門へ出て、まずは増上寺をお詣りした。
増上寺の本堂は改修工事がされていてお詣りはできなかったのだが、
それはそれで
OK♪ 
本堂裏手にある徳川家廟所の門前から家茂将軍と和宮様に手を合わせ、
イソイソと東京タワーへと向かった。
平日とはいえさすがにゴールデンウィークということもあり、
東京タワーは午前中だというのにけっこう混雑していた。
展望台へのチケットを求める行列の脇を通り、
僕はそそくさと蝋人形館のある
3F へと続く階段をかけ上った。

突如として蝋人形館へ行こうと思ったのにはキッカケがある。
先日たまたまテレビを観ていたところ、
女優の山口智子がナビゲートするレオナルド・ダ・ヴィンチの特番をやっていて、
ついつい観入っているうちに東京タワーの蝋人形館にある
「最後の晩餐」の蝋人形が見たくなったという次第である。

サージェント・ペパーズの格好をしたビートルズの面々の蝋人形に出迎えられ、
さっそく中に入ったところ、いるわ、いるわ、古今東西の有名人が。
マリリン・モンローがいて、ジョン・ウェインがいて、
エリザベス・テーラーがいて、マドンナがいて、ジョディ・フォスターがいる。
ここはまさに時空を超えた異空間なのである。

僕はこのキッチュな雰囲気が好きで、
時たまここを思い出したように訪れる。
目的の「最後の晩餐」もしっかりあった。
僕はホクホク顔で、さらに歩を進めた。

以前、来たときはこの先に
中世ヨーロッパあたりの拷問の様子を集めた展示室があったのだが、
そこは固く扉が閉ざされていた。
ここのおどろおどろしい雰囲気も嫌いではなかったので少し残念ではあったが、
僕はさらに奥へと入っていった。
角にジミヘンの蝋人形がいた。
いよいよである。
ここからが、本当の蝋人形館のクライマックスなのだ。

この蝋人形館には
ビートルズのサージェント・ペパーズのジャケットにも使用された
貴重な蝋人形が展示されている。
ただし、ポールだけは違う。
この蝋人形が発見されたとき、
ポールの蝋人形だけがなかったそうなのである。
ということで、残念ながらポールだけは後に製作された蝋人形なのだが、
それでも貴重であることに変わりはない。
僕は満足げにビートルズの面々に別れを告げ、
いよいよ最終ポイントへと向かった。

この最終ポイントには、フランク・ザッパやリッチー・ブラックモア、
キース・エマーソンといったミュージシャンの蝋人形が展示されている。
しかし、ここに来るたびに僕は大きな疑問を感じずにはいられない。
なぜザッパ
? なぜリッチー? なぜキース・エマーソン?
もちろん3人ともロックンロール音楽の歴史を語る上では
重要なミュージシャンたちである。
特にフランク・ザッパはパンタにも影響大で、
頭脳警察という名前はザッパが在籍していた
ジ・マザーズ・オブ・インヴェンションの『フー・アー・ザ・ブレイン・ポリス?』を由来としている。

のだが、あまりにも通好みすぎる。
誰もが知っているミック・ジャガーやプレスリーの蝋人形は展示されていないのに、
ザッパやリッチー・ブラックモアの蝋人形はずっと展示されているのだ。
このセレクトからして、すでにカオスである。


自慢の胸毛をチラつかせ、ギターを手にポーズを決めている
リッチー・ブラックモアの蝋人形を見ていると、
リッチー・ブラックモアがディープ・パープル脱退後に結成したレインボーの
『アイ・サレンダー』が聴こえてくるようであった。

僕はもともとハードロックをあまり好んでいなかったので、
レインボーについて思い入れはない。
が、『アイ・サレンダー』については
1つだけ想い出がある。

僕が1819歳の頃に住んでいた中野坂上のオンボロアパートには、
ある宗教を熱心に信仰している人たちがたくさん住んでいた。
どのぐらいたくさん住んでいたかというと、
僕の部屋があった
2Fの住人全員がそうであったのである。
当然のごとく入れ替わり立ち替わりしつこく勧誘された。
僕は、それをのらりくらりとかわしていた。
あまり強硬な態度をとって、住みづらくなるのが怖かったのである。

しかし、そんな僕に対する勧誘はますます激しくなる一方だった。
ある日などは、中野の青年部の部長だかなんだかがやって来て、
僕を
3時間にわたり説得しようとした。
僕は信仰とは、何を拝むかではなく拝む心が大切なのであって、
それはつまりイワシのアタマを拝んでも一緒なことであるという自説でそれに対抗した。

基本的に僕は何を信じようが、それはその人の自由だと思う。
だけれども、それを強要するのはよくない。
彼らのアプローチは、まさに強要に近いものだった。
僕は自分自身の信ずるところに従って、
その強要に屈するワケにはいかなかったのである。

さらに僕は、彼らの選民意識が許せなかった。
私たちは選ばれた人間で、このありがたい教えに気づいていない、
かわいそうな人たちに対し救いの手を差し伸べているのです、
という態度が気に喰わなかったのである。

そこである日、僕は決意した。
今度、来たら徹底的にやっつけてやると思ったのである。

そのチャンスはほどなくやってきた。
僕の向かい側の部屋に住んでいる大学生が、
お茶を飲みに来ないかと誘ってきたのである。
僕は決意を胸の奥に秘め、はじめてその人の部屋に入った。
6畳に満たないその部屋には仏壇があり、
なにが描かれているのかもわからない小さな掛け軸が飾られていた。

茶飲み話は当然のごとく宗教の話になった。
僕は仏壇の掛け軸を指差し、
あれを拝めばあなた方のいうような幸せな人生が送れるのですか、と聞いた。
その部屋の主は、そうだと答えた。

僕はふふーんと立ち上がり、じゃあ、この掛け軸をたとえば僕が破いたら、
僕は罰が当たりとんでもなく不幸な人生を送ることになるわけですね、と言葉を続けた。
そして、間髪おかず「じゃあ、やってみましょう」といって掛け軸に手を伸ばした。

このとき、部屋のなかに流れていたのが『アイ・サレンダー』なのである。
僕は必死になって止める大学生の手を振りほどこうとしながら、
「はなせ、バカヤロー」といって何度も掛け軸を破ろうとした。
もちろん本気で破くつもりはなかった。
この意表をつく突飛な行動だけで十分、目的は果たせると思ったのである。

結局、事態は僕が望んだとおりとなった。
I surrender”ならぬ“No surrender”な僕の生き方は、
このときからはじまった。

レインボーの『アイ・サレンダー』には、
こんな想い出がある。

東京タワーを出たあと、僕はその足で日の出桟橋へと向かい、
そこから水上バスで浅草へと向かった。

 ある晴れた5月の午後 光に満ちた日の出桟橋

 彼女はまばゆく髮を濡らして 海の香りを感じてる

 群青色の空高く 完璧な世界なんてどこにもないのさ

 空にからまって 幸せなときを過ごそう

 陽が暮れてしまうその前に

 悩みさえたちまち消えてく

 ほらもうすぐそこに僕らを乗せる船が来てる

 水上バスに乗って下町にくり出そう

 水上バスに乗って Sha la la la・・・

 うまくゆかないときでも君に守られてる

 終わりの来ない日常に苛立ちも捨てて

この歌詞は佐野(元春)くんの作詞による『水上バスに乗って』という歌である。
まさにある晴れた
5月の午後だったので、
その歌のように水上バスに乗って浅草に行こうと思ったのだ。
東京タワーに、水上バス、そして浅草である。
やっていることは、まるで東京観光に来た旅行客である。
でも、僕はどうしてもこの日、水上バスに乗りたかったのだ。

この数日前、僕は仕事で久々に嫌な思いをした。
僕と接した担当者がイケ好かないヤツだったのである。
その担当者は僕よりひと回り以上年下の男だった。
こっちがキチンと挨拶をしてもまともに挨拶を返さない。
さらには僕と敵対するかのような接し方で仕事をし、
何度も悪意に満ちた口調でいちゃもんをつけてきた。

立場が違うだけで、
なんでこんなヤツにこうも偉そうにされなきゃならないんだと何度も思った。
そしていくら仕事とはいえ、
こんなヤツのこんな態度に我慢を重ね続けていなければならない
自分自身を呪いそうになったのだ。

さらには進行している仕事の締めがうまくいかず、
2月に引き続き4月も売上げがダウンしていた。

僕には気分転換が必要だったのである。

浅草に着いて、多くの人々でごった返す仲見世通りを久しぶりに歩いてみた。
ほどなくして仲見世名物のあげまんじゅう屋さんの前を通った。
ここのおばあちゃんは、たしかもう
100歳前後である。
おばあちゃんはこの日も元気にあげまんぢゅうを詰めていた。

僕はそのおばあちゃんの姿を見ながら、
100年生きるのってどんな気持ちなのだろうと考えた。
と同時に、売上げの低迷を気にして、
さらには年下の人間の態度に腹を立てていた自分が、
どうしようもなく小さな人間に思えて仕方がなかった。

少し元気をとり戻した僕は、
あらためてそのおばあちゃんの姿を見た。

ヘンないい方になるが、
なにも死んだ人だけが神様や仏様になるのではない。
いま僕らが生きているこの世界にだって、
神様や仏様はたくさんいるんだ、そんなことを感じた。


2008.05