プリンセス・プリンセス「ダイヤモンド」


“靖国”が問題となっている。
といっても、靖国神社そのものではない。
映画“靖国”のことである。

在日中国人の李監督が10年間にわたり撮り続けた、
200本を超える膨大なフィルムをまとめた映画“靖国”の上映中止を
映画館側が決定した一件は、連日新聞紙上などで取り上げられている。

映画館側が上映中止を決定した背景にはさまざまな思惑があるようだが、
私見を述べさせてもらえれば「情けない」というひと言に尽きる。

今朝の朝日新聞に李監督へのインタビューが掲載されていた。
そのなかで李監督は「映画は作り手と観客との共同作業。
劇場という空間で見られて本当の意味で完成する」と語っている。
今回の上映中止は、その大切な完成の場である「劇場」自らが、
その責務を放棄してしまったと僕はとらえている。

たしかに映画そのものののテーマはややこしい。
上映に際しては、さまざまなトラブルも予測される。
しかし、憲法で保障されている「表現の自由」が
権力とか思想によって封印されていいのだろうか
? 
僕は今回の一件に対し、検閲制度復活の足音が聞こえてならない。
そして「臭いものにはフタを」という風潮がますます強くなっていることを感じるのだ。

昨日の朝日新聞で、
映画監督であり作家でもある森達也氏がこの件について発言していた。
そのなかで森氏は「イワシやメダカは、
1匹が逃げると群れの全員がどっと逃げる。
同じように人も群れる。群れの暴走は怖い。
だから、場を乱すなとの声が高くなる。日本社会はいま多数に同調し、
少数の意見や見方をたたく傾向が強まっている」と発言している。

子どもの頃、僕は民主主義→多数決→正しい決定ということを教わった。
しかし、いまの日本を見る限り、
多数決が必ずしも正しい決定とはどうも思えない。
民主主義の定義はとてもひと言で述べられるものではないが、
僕は平等な立場で個人こじんが自分で考え、
法の枠組みのなかで自由に意思決定をすることだと思っている。
賛成をするも、異議申し立てをするも、
それは自己の責任において自由であるべきはずものなのだ。

しかし、どうもいまの風潮はそうではないように思える。
「個」よりも「数」が優先されてしまっているように映るのだ。
それは政治にしてもそうだし、日常生活のワンシーンにしてもそう。
人々が自分で考えることを放棄してしまったかのように思えることが多々ある。

1989年、佐野(元春)くんは“ナポレオンフィッシュと泳ぐ日”というアルバムを発表した。
そのなかに『愛のシステム』という曲が収められている。
この曲では、こんなことが唄われている。

 そこにあるのはシステム 君はいつもはずれている

  正しいと言う時 まちがいと言われる

 そこにあるのは力 いつも負けてしまう

  まるで沈む石のように 君を悲しくさせる

 そこにあるのは数 いつも押されてしまう

  あきらめる前に 少しだけ疲れているだけさ

 そこにあるのはユニフォーム スピリチャルなペチコート

  くりかえしくりかえすあいだに いつの間にか君を好きにさせてしまう

 愛はフラスコの中 君を怖がらせてる

  たどり着く前に 君を疑わせてしまう

 さよならのくりかえし 君は無口になる

  彼女の清らかな海 それは君の果てしない砂漠

  (作詞・佐野元春)

ちょうど、このアルバムが発表されたころは、
プリンセス・プリンセスの『ダイヤモンド』が大ヒットしていた。
そんななか、佐野くんは現代への予言ともいえるようなアルバムを発表していたのである。

“ナポレオンフィッシュと泳ぐ日”
について、佐野くんはリリース当時
90年代のデモクラシーについて、
そしてあらためて“個”の自由について考えてみたいと思った」という発言をしている。

このアルバムに収められた
13曲は、
いま聴くとさらにリアリティがある。
興味がある人は、ぜひ聴いてみてほしい。

昨日の夕方、池袋でデザイナーと打ち合わせをしている最中、
質よりスピード・量・低料金が求められている広告制作の現状が話題になった。
このデザイナーは僕より
7歳年下なのだが、
広告づくりに関する感覚や姿勢は僕と非常に似ている。
広告という名のメッセージを、
伝える相手である消費者の人たちにどうやったらしっかりと伝えられるか、
というところに重きをおいてデザインをするクリエイターなのだ。

このデザイナーは今年3つの得意先を失ったという。
理由はすべて、内製化。
つまり広告の制作を外部に発注するのではなく自社でまかなうということで、
お役御免を通告されたというのだ。

内製化というのは一見効率がいいように見えるが、
実はそこに大きな落とし穴がある。
まず広告するモノに対して客観視できない場合が多いということ。
それによって「なあなあ、オレっていいオトコだろ」的な
独りよがりで自己満足的な広告がつくられてしまう。
そんな広告で消費者の心は動かない。
そんな広告はメッセージもなんでもなく、
ただの色のついた紙になってしまうのだ。
もうひとつは、クリエイティブ自体がルーティン化してしまうこと。
突き詰めてアイディアを出すことがなくなり
「まあいつも通り、このぐらいでいいか」という
妥協点だらけの広告がつくられてしまう。

結果、それも消費者の心に響かない広告となる。

もちろんフリーランスで仕事をしているすべてのクリエイターが
これと逆のことをしているわけではないし、
サラリーマンクリエイターのすべてが
こんな風にして広告づくりをしているわけではないだろう。
しかし、少なくても僕の知る限り往々にしてこの傾向は強いと思う。

と、なんだかんだいっても、所詮は僕も企業の論理には勝てない。
脆弱な立場のイチ個人クリエイターに過ぎないからだ。

独立して痛感するのは、
自分が理想としている広告づくりをいま多くの企業は求めていないということである。
僕がそれはこうすべきだと思いますと主張しても、
そんなことより早く安くが優先されてしまうのだ。
そんなことを考えると、さすがの僕も弱気になるときがある。

昨日もそんな胸のうちを明かした。
「ひょっとしてオレが間違ってるのかな」という僕に対し、
そのデザイナーは「そんなことはないですよ。
絶対にタカハシさんの考えていることのほうが正しいに決まってますって。
そのうち必ず、その価値が認められるときがきますよ」と励ましてくれた。

「そうだよな。逆にまわりがそんな広告づくりをしているヤツばっかだったら、
逆にオレらのほうが希少価値が高いってなもんだよな」と単純でノーテンキな僕は、
そのデザイナーの言葉にすっかり元気を取り戻した。

圧倒的多数がすべて正しいワケではない。
それを自分の仕事で証明してやるのだ。
このイカれた世の中にカウンターパンチを喰らわしてやる。
そんなことを考えながら、
“ナポレオンフィッシュと泳ぐ日”の
2曲目、『陽気にいこうぜ』の
「俺はくたばりはしない 〜 
La La La・・・陽気にいこうぜ 夜が明けるまで」という
フレーズをアタマのなかで高らかに唄いつつ、
僕は意気揚々と打ち合わせから帰ってきた。

2008.04