フィル・コリンズ「ワン・モア・ナイト」


その異変は金曜日の夕方に来た。
23日前からちょっと違和感はあったのだが、
大したことはないだろうとタカをくくっていたのが間違いだったのだろうか
?
それから僕は猛烈な痛みに耐えながら断末魔の一夜を過ごした。

異変が起きたのは右膝である。
痛みの原因はよくわからない。
捻ってもいなければ、ぶつけてもいない。

前々から膝は左右の内側・外側を問わずたまに痛くなることがあった。
たいていは最初、小さな点で痛みが始まり、
徐々にその痛みが移動したり拡大したりして、
ひどいときには痛さで眠れず、
歩くことさえ困難になったことも多々あった。

かつて激しく痛くなった際に検査してもらったこともあるのだが、
痛風でもなければリウマチでもなかった。
以前はサッカーをやっていたのでそれが原因とも考えられなくはなかったのだが、
痛みが出るのは必ずしもサッカーのあととは限らず、
しかも今日に至っては現役を引退してる身。
運動といっても、せいぜい週末にヨタヨタと走ったり、
ホテホテと散歩をしたりという程度なので、
それほど膝に負担をかける生活を送ってはいないはずである。

なのにである。
突然、痛み出したのだ、先週の金曜日の夕方に。
それは、ここ数年間体験したことのない圧倒的な痛みであった。
どのぐらい痛かったかというと膝を曲げても痛く、伸ばしても痛く、
さらにはなにもしなくても痛く、
あまりの激痛のために貧血のように気持ち悪くなり、
冷や汗が出てくるようでさえあった。

前述のとおり膝の違和感は23日前からあった。
しかし、痛みはそれほどではなかった。
経験則からいえば、
最初に痛みを覚えてから
2日以内に爆発的な痛みがこなければ、
大したことにはならない。
僕はきっと大丈夫であろうと楽観視していたのだ。

それがこのザマである。
とにかく痛くて痛くてしょうがなく、
居ても立ってもいられなくなった僕は市販の湿布を貼り、痛み止めを飲んだ。
が、普段ならすぐに効くはずの痛み止めはまったくその効果を発揮せず、
痛みは翌朝になっても続いていた。

あまりの痛みに耐えきれなくなった僕は「もはやこれまで」と悟り、
医者に行くことを決めた。
が、部屋のなかをちょっと移動するだけでも激痛と闘いながらである。
あまり遠くの病院には行けそうもない。
そこで僕のアタマに浮かんだのが、
自宅から
300メートルぐらいのところにある整骨院であった。

300メートルぐらいなら気合い一発でなんとかなるだろう。
とにかく病院に行きさえすればなんとかなるさと自分に暗示をかけ、
痛む右足にサポーターをつけてヨロヨロしながらその整骨院へと向かった。

この整骨院は、もちろん初めて行く病院であった。
玄関をくぐろうとして、僕はちょっとショックを受けた。
狭い、汚い、古い。
おいおい、大丈夫かよと思ったが、
ここまで来た以上、別の病院に行くのも面倒だし、
第一もはやその気力がない。
僕は受付らしきスペースのところにいた女性に「初診お願いします」といいつつ、
保険証を出した。

しばらくして、先生らしき男性が僕のところにやって来た。
どうしたの
?というので、僕は右膝の内側が痛いと答えた。
その後、数人の患者さんでごった返す治療室内に通され、
超音波をかけるように指示された。
エコー検査などで使われるような機械で、
ゼリーを塗った機器を自らゆっくりと動かしながら患部に超音波を当てるのである。

かつて僕が恥骨炎という間抜けな名前の故障を抱えていたとき、
この超音波治療をよくやっていた。
このときの患部は、左の鼠径部。
ようするに股の付け根である。
場所が場所なだけに、看護婦さんにやってもらうワケにはいなかい。
パンツを脱ぎ、下半身を露にした情けない格好で、
15分ばかり続く治療を自分で行っていた。
治療機器はタイマー式になっているので、
治療時間が終わるとピピピピピという大きな音で知らせてくれる。
その音を聞き、治療機器や股間についたゼリーを拭う時間を考慮に入れ、
僕がパンツをはいた頃合いを見計らって看護婦さんがやって来るという段取りになっていたのだが、
なかには慌てん坊の看護婦さんがいて、
僕がまだ下半身を露にしたままなのに
「はーい、タカハシさん終わりましたか
?」と元気よくカーテンを開け、
治療ベッドに入って来られたことが何度かあった。

このときすでに
30代半ば。
丸出しの股間を見られたところで失うものなどナニもないが、
それでもやっぱり恥ずかしかったことを憶えている。

・・・と、それはさておき・・・超音波治療が終わったあと先生がやって来て、
膝のじん帯が炎症を起こしているのだろうといった。
そして今度は吸盤のついた機械を膝のまわりにつけられ、電気を流された。
それが終わったらまた先生が来て、
湿布を貼って様子をみてまだ痛むようだったら火曜日にまた来るようにといわれた。
湿布は、黒い色をした手づくりのものだった。
先生は炎症の熱をとるにはこれが一番効くんだといいながら、
テーピングを施してくれた上からその
1枚を貼った。
そして、その上に黄色い油紙をのせ、
まるで網タイツのようなガーゼで固定した。

僕は油紙というものを実に久しぶりに見た。
5歳ぐらいのころ山で転んで左手首にヒビが入ったのを皮切りに僕は、
やんちゃな性格が災いして子どもの頃から何度も整骨院のお世話になったものだが、
確かにその頃は先生が練ってくれた湿布の上に油紙をのせていたことを憶えている。
が、少なくとも大人になってからは、
病院でもらう湿布も市販のモノと同様のものになっていた気がする。
なので
21世紀の今日、まさかこのような、
ある意味原始的な湿布に再びめぐり合えるとは思ってもいなかった。

治療を済ませ、お会計しようとしたら先生が口頭で
「初診料が
1100円で治療費が500円だから、1600円ね」といった。
僕はいわれたとおりのお金を先生に差し出した。
お金をもらいながら先生はさらにこう続けた。
「いま忙しくて領収書が書けないから今度取りにきて。
あと、診察券も名前を書く時間がなかったから、自分で書いといて」

さっきは受付にいた女性も忙しそうに患者さんの間を走り回っていたのである。
それにしても領収書も手書きとは、なんとアナログな病院なのだろう。
湿布の件といい、本当になかなかいまどき珍しい病院である。
でも、いいのだ。治してくれれば、それでいい。
よく効くという湿布をもらい、ひと安心した僕は
「じゃあ、セルフサービスで診察券には名前を書いておきますね」と軽くギャグをかまし、
先生と受付の女性の笑いを誘った。

その直後、渡された診察券を見て、僕はまたまたビックリした。
パソコンでちょっと厚めの紙に印刷しただけの手づくり診察券だったのである。
ハサミで切ったのであろう。
フチのほうは見事にクネクネしていた。

その後、帰宅してから、僕は自分がちょっと熱っぽいことに気がついた。
もしや風邪を引いたか
?とビックリしながら体温を測ったところ37.1℃だった。
僕は平熱が低い。
どのぐらい低いかというと、
ちょっと熱っぽいと思って病院へ行き体温を測ったら
35.9℃だったというぐらいで、
僕にとって
36℃前後という体温は、
体感的には平熱が
36℃台半ばの人の微熱感覚なのである。
そんな僕が
37.1℃なのだ。
膝の激痛に続いて風邪とは、
これはまさに後厄の禍いか
?などと一瞬恐れをなしたのだが不思議と具合は悪くない。
風邪の引きはじめによくみられるノドや鼻の奥の痛みもない。

結論からいえば、この熱はたぶん膝から来ていたのであろう。
その後、すぐに熱は下がった。

おまけに頂戴した原始的な湿布も効いたようで、
土曜日の夜には痛みもかなり和らいだ。
先生が多めにくれたので用心して昨日まで湿布をしていたのだが、
今日はもうその必要もないぐらいである。

本当に治ってよかった。
まさに温故知新的な湿布のおかげである。

病院が狭かろうが、古かろうが、汚かろうが、診察券がなんであろうが、
患者にとって一番ありがたいのは治してくれる病院であるとつくづく思わされた。
そして病院を見た目で判断してはいけないということを教わった。
この病院の先生には、心から感謝したい。

温故知新といえば、病院から帰って来てすぐCSMTVチャンネルで
80s クラシック”と題された80年代の洋楽特集が始まった。
オープニングはやはり
MTV史上最初のオンエア曲である
バグルスの『ラジオスターの悲劇』であった。
続いてローリング・ストーンズの『スタート・ミー・アップ』が流された。
僕は懐かしい映像を観ながら、僕が
10代を過ごした80年代に思いを馳せた。

しかしこの番組、楽しめたかというとそうでもない。
まずは
CMが多すぎた。
23曲流してすぐCMという構成は、
正直いって楽しい時間に水を差すようようなものであった。
さらに選曲がイマイチだった。
もちろん好みにもよるのだろうが“
80s クラシック”と題された2時間番組にしては
とり上げる曲が、ちょいとばかしマニアックすぎる傾向があったと思う。

マドンナの『ボーダーライン』は、
それこそギリギリのボーダーライン上で
OKだと思うが、
シンディ・ローパーの『トゥルーカラーズ』はどうかなと思った。
80年代を代表するビデオクリップを流す番組でシンディ・ローパーの曲を流すなら、
もっと別の曲があるのではと思ったのだ。

プリンスの『レッツ・ゴー・クレイジー』や
マイケル・ジャクソンの『ビート・イット』も流されたが、
まあこれはこれで仕方があるまい。
ポリスの『見つめていたい』は納得である。
だが、パット・ベネターやダイアー・ストレイツの曲が流されたのは意外であった。
MTVの歴史を語る上でたぶん欠かせないであろう
a-haの『テイク・オン・ミー』もカーズの『ユー・マイト・シンク』も流されず、
そして僕が愛してやまない
The Boss”ブルース・スプリングスティーンの曲もとり上げられなかったのに、
パット・ベネターがとり上げられたのである。

もちろんパット・ベネターに個人的な恨みはない。
なんてったってグラミー賞もたしか
4度受賞している
ロック界屈指の姐さんシンガーである。
かくいう僕も
10代の頃、よくラジオから流れる彼女の歌声を聴いた。
でも、この番組でのパット・ベネターの登場は、
違和感を覚えずにはいられなかった。

ちなみにダイアー・ストレイツに関しては、
個人的にもともとあまり好きではないのである。失礼。

さらにこの番組ではフィル・コリンズの
『ワン・モア・ナイト』もオンエアされたのだが、
この選曲もいかがなものかと思った。
前の夜は激痛と闘い、ろくすっぽ眠れなかった僕である。
そんな僕にとって「ワン・モア・ナイト」なんてフレーズは
まさしく「
No more」であったからである。
というのは冗談だが、どうせフィル・コリンズをとり上げるなら、
僕はあのシュープリームスのカバー『恋はあせらず』にしてほしかった。
フィル・コリンズが
13役でシュープリームスのように唄い踊るビデオクリップは、
なかなか良い出来だったことを憶えている。

いまのナウなティーンネージャーが、この番組で果たして
ロックンロール音楽の「
(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」ことができたか? 
余計なことではあるが、
80年代を生きた元ティーンネージャーとして
モノ足りなさを感じた番組であった。

それにしても、いったいあの膝の痛みは何だったのであろうか?
若いつもりでいても、間違いなく42歳。
認めたくはないことだが、
これから確実に体は衰えていると認識しなくてはなるまい。

以前、原田芳雄さんが“笑っていいとも!”にご出演された際、
普通に歩いていただけなのに骨折したなどといった話の流れで
「この歳になると本当に信じられないことが起きますからね」とおっしゃられていたことを想い出す。
もちろん芳雄さんと比べたら僕は
26歳も年少なので、
まだまだ「この歳になると」なんていってはいられないのだが、
今回の一件であらためて無事でいることのありがたさをしみじみと実感した。

折しも昨日は敬老の日。
ニュースを見ていたら
90過ぎのおじいちゃんがボウリングをしている映像が流れた。
しかも、めちゃめちゃ上手いのである。
ストライクやスペアを連発していた。

そのおじいちゃんの映像を見ながら、
僕は
15年ぐらい前に八王子のビリヤード場で会ったおじちゃんを想い出した。
たぶん年齢的には
70歳前後だったと思う。
そのおじちゃんもビリヤードがめちゃめちゃ上手かった。
そして若造である僕に笑いながら、こんなことを話してくれた。
「ビリヤードは頭も使うし、体も使うから、とっても健康にいい遊びなんだよ。
一生楽しめる遊びだからね、おまえさんもがんばりな」

まさに年齢を重ねた者だけに許される至言である。
このおじちゃんがいまも元気にビリヤードをやっていることを願いたい。
そして願わくば僕も
70歳になってもビリヤード場に出入りするようなオヤジになりたいものである。

といいながら、今日は1日中バタバタとして朝から一歩も外に出ていない。
膝が痛くなるのも考えものだが、その前に足腰が衰えてしまっては元も子もない。
とりあえず明日は、せめて陽の光を浴びに行こう。


2008.09