ポール・ウェラー「マーメイズ」

昨日、とり上げたミュージカル“Buddy”を観たその日、
その足で僕は新宿リキッドルームへと向かった。
ポール・ウェラーのライブを見るためである。

ポール・ウェラーは、僕のなかで佐野元春、
ブルース・スプリングスティーンと並ぶ
三大ロックヒーローのひとりである。
ジャム、スタイル・カウンシル、そしてソロになってからと
僕はずっとポール・ウェラーの音楽を聴き続けてきた。

199710月、そのポール・ウェラーの来日スケジュールに合わせ、
僕は有給休暇をとり“
Buddy”とポール・ウェラーのライブという
超豪華二本立てな日を迎えたのである。

リキッドルームのなかに入ったときは、
すでに多くの観客がステージ前の中央に陣取っていた。
センターマイクからはちょっと離れているが、
ステージに向かって右側の最前列をキープした僕は、
目の前にあるマイクスタンドを眺めつつ、
血沸き肉踊る思いでいまや遅しとポール・ウェラーの登場を待っていた。

ツアースタッフによりポール・ウェラーの名がコールされ、
メンバー全員が出てきた次の瞬間、
僕は自分の幸運に対し、信じられない思いでステージを見上げていた。

てっきりセンターマイクの前に立つものだと思っていたポール・ウェラーが、
僕の目の前に立ったのだ。

オープニングは、1995年リリースの全英ナンバーワン獲得アルバム
“スタンリーロード”のオープニング曲でもある
『ザ・チェンジングマン』
であった。

もはや、何もいうことはない。
僕はこの日、この瞬間に心から感謝した。

このときの来日は、ポール・ウェラーのソロ4枚目のアルバム
“ヘヴィーソウル”の発売記念ツアーの一環であった。
このアルバムのラストナンバー『マーメイズ』
は、
ちょっと甘めのラヴソングなのだが、
この日のライブで、この歌を歌っているときのポール・ウェラーは、
神経質そうないつもの表情ではなく、実に幸せそうな表情をしていた。

きっと僕も、そんなポール・ウェラーを目の前にしながら、
至福の表情を浮かべていたに違いない。

ポール・ウェラーがジャムを解散したとき、
僕は高校
2年生だった。
「ジャムでやるべきことはすべてやり尽くした。
このままだらだら続けて、ストーンズのようにはなりたくない」
と絶頂期でジャムを解散したポール・ウェラーの潔さに、
まるで「ならぬものはならぬものです」という
会津藩の武士道を見たような気がした。

骨太なジャムから一転して、
ポール・ウェラーはスタイリッシュなファッションとサウンドの
スタイル・カウンシルを結成。
『マイ・エヴァー・チェンジング・ムーズ』
をはじめ、
数々のヒットを飛ばした。

しかし、スタイル・カウンシルは、
最後にはレコード会社からもそっぽを向かれることとなってしまい、
静かにその活動に幕を下ろした。

スタイル・カウンシル解散後、
ソロアーティストとなったポール・ウェラーは再起をかけ
“ポール・ウェラームーヴメント”と称する
クラブツアーをはじめた。
このとき、ポール・ウェラーの周囲には、
過去の実績やアーティストとしての格からして
クラブツアーなどはするべきではないという声があったという。

でも、ポール・ウェラーは己の信じる道にしたがって、
地道ともいえるクラブツアーをこなし、
1991年にはソロとしての初来日。
そして、前述のアルバム“スタンリーロード”で、
再びミュージックシーンのメインストリームに戻ってきたのだ。

18歳でのデビュー、若くしての大成功、
新たなる試みの挫折、そして再びイチからのスタート。
ポール・ウェラーの音楽人生は、波乱に富んでいる。

だが、ポール・ウェラーは一貫してポール・ウェラーであった。
なんか、筋の通らない生き方をしている人たちがやたらと目につく昨今、
ポール・ウェラーのような筋の通った生きざまは、
とてもうらやましく清々しい。


2006.12