ポール・マッカートニー「マイ・ブレイヴ・フェイス」

昨日に引き続き、セブ島のハナシ。
泊まったホテルのロビーでくり返し流れていたのが、
ポール・マッカートニーのベスト盤である。
僕はセブ滞在中、
『バンド・オン・ザ・ラン』や『心のラヴ・ソング』などを
BGM
夜な夜なビリヤードに興じていた。

ビートルズ解散後の
ポール・マッカートニーに対する僕の評価は低い。
アルバム『バンド・オン・ザ・ラン』は、
まさにポール・マッカートーここにあり
!!といった名盤だが、
それ以降の作品はどれも及第点といった感じで、
あまり夢中にはなれなかった。

そんな僕に「これでドヤッ!!」と届けられたのが、
1989年に発表されたアルバム“フラワーズ・イン・ザ・ダート”である。
このアルバムの制作に先立ち、
ポールは
1987年ごろからエルビス・コステロと共作をはじめた。
そのなかから生まれたのが『マイ・ブレイヴ・フェイス』であり、
『ヴェロニカ』である。

ビートルズの解散以降、
ポールは意識的にビートルズを自分の音楽性のなかから排除していたように思う。
しかし、『マイ・ブレイヴ・フェイス』は違う。
もろ、レノン&マッカートニーの世界なのである。

ポールも何かふっ切れるものがあったのであろう。
1989年から90年にかけて行われたワールドツアーでは、
それまで封印していたビートルソングを次々と演奏。
その数は、セットリストの約半分を占めた。

さらにいえば、このツアーでは、
ポールの代名詞ともいえるモノでありながら
ビートルズの解散以降使うことのなかった
“カールヘフナー
500-1”を使っての演奏も披露している。

尊敬する音楽評論家の松村雄策さんが
『バンド・オン・ザ・ラン』をはじめて聴いたとき、
ワンワン泣いたというようなことを読んだことがあるが、
僕も『マイ・ブレイヴ・フェイス』を聴いて涙がこぼれそうになったことがある。

それは通勤電車でのことだった。
いつものように『マイ・ブレイヴ・フェイス』を聴きながら乗った電車が、
多摩川を渡ろうとしたときのことである。
The simplest thing set me off again,take me to that place
というフレーズのメロディラインがあまりにも美しすぎて、
思わず涙があふれてきたのだ。

これはイカンと思った。
僕は必死になって上を向いた。
むろん、涙がこぼれないようにである。

10代の頃は音楽を聴いて感動し、
思わず涙があふれてくるという経験が何度かあったが、
社会人となってからはそんな経験は皆無だった。
このとき僕は
23歳だったのだが、
まだまだティーンネージャーのような感受性をもっている自分自身に驚くとともに、
あらためてポールのソングライターとしてのスゴさに驚かされた。

そのスゴさを引き出したコステロも侮ってはいけない。
コステロがいなかったら、この名曲も生まれなかったかもしれないのだ。

本当に実力をもった者同士ががっぷり四つで組んだときの、
爆発的な創造力というのは恐ろしい。

僕はポールやコステロクラスのクリエイターではもちろんない、
どころか足元にも及ばないのだが、
クリエイターとして常に最高のものをつくり出したいという思いに変わりはない。

僕はコピーライターとして最高のコピーを書く、
デザイナーはデザイナーとして最高のビジュアルをつくる。
そして再び僕は僕で、クリエイティブ・ディレクターとして
最高のディレクションをする。
その相乗効果によって、世の中が少しでも豊かになったり、
楽しくなったりするような広告をつくりたい。

クライアントが大手であろうとなかろうと、
商品がメジャーであろうとなかろうと、
予算があろうとなかろうと関係ないのだ。
与えられたフィールドで、
できることを最大限にやればいいのである。

状況を言い訳にするヤツに大したことはできない。
ポール・マッカートニーは、
バンドメンバーの相次ぐ脱退のなか、
わざわざナイジェリアにわたり、
マスターテープの盗難などのさまざまなトラブルにもめげず、
嫁のリンダとギタリストのデニー・レインだけで
世紀の一大傑作『バンド・オン・ザ・ラン』をレコーディングしたのだ。

僕がつくっている広告で、
世の中を変えることなどはできない。
でも、確実にその広告を見て、何かを買ったり、
遊びに出かけたり、飲んだり食べたりしている人がいる。

僕は広告を通じて、
その人の人生にささやかな影響を与えているのである。

その責任は、決して軽くない。


2007.01