尾崎豊「僕が僕であるために」

「歌う41歳」ことトモフスキー以外にも、
僕と同学年のミュージシャンはけっこういる。

大槻ケンヂくんや奥田民生、吉川晃司などがパッと思い浮かぶが、
一人
41歳になるのを待たずに
26歳で生涯を終えてしまったミュージシャンがいる。
尾崎豊である。

尾崎豊というアーティストがデビューしたというのは、
雑誌“ロッキング・オン”で知った。
それからしばらくして、テレビ神奈川で放映されていた
“ミュージックトマト・ジャパン”で尾崎豊の映像をはじめて観た。

「自由じゃなきゃ意味がねえんだ!! 
 オマエらホントに自由か
!? 腐った街で埋もれてくなよ
 オレたちがなんとかしなきゃよ なんにもなんねえんだよ」
という
MCに続きイントロが流れる『17歳の地図』のプロモは、
実にエネルギッシュで映像的にもなかなか見ごたえがあった。

ご存知のとおり尾崎豊はその後、カリスマ的なロックスターとなり、
26歳でその生涯を閉じた。
メディアは彼の死を「
10代の教祖の死」と大々的にとり上げ、
ひとつの社会現象とまでなった。

僕はその報道ぶりを横目で見ながら、
違和感を覚えずにはいられなかった。
いちばんひっかかったのは、
彼の父親が「もし豊が
10代の教祖だとしたら、
じゃあその教義は何か。それは自由だと思う」
というようなことをいっていたのを見たときだ。

自分の息子を教祖というか、普通?と思ったのだ。

しかも教義まで定義するなんて、
失礼を承知でいえばなんか舞い上がっている人に思えて仕方がなかったのだ。


教祖・尾崎豊が教えた自由とは、
いったいなんだったのだろう?

盗んだバイクで走り出すことが自由か?

僕が思うに、自由の裏側には必ず自己責任がある。
自己責任を無視した自由なんて、
そんなのはただの無責任でしかないと思う。
しかし
10代の頃は、
僕も自由の裏側にあるものなど気づくことなく、
身勝手なことをして迷惑をかけたり、
誰かを傷つけたりした。

そんな経験を重ねながら
少しずつ自由の概念を自分なりに構築し、
現在に至っている。
とはいえ、まだまだ道半ばの若輩者。
自由とはこういうものであるという真実を会得するまでは至っていない。

18歳の頃、尾崎豊を評してある先輩が
「なんか唄ってる内容が昔の吉田拓郎みたえだな」といった。
そして「いつの時代もこういう歌手はいるんだよ」といった。

1980年代、尾崎豊はまぎれもなく
ティーンネージャーの心をとらえる歌を数多く発表した。
それは認める。
しかし、彼が教祖だったかどうかといわれると、
同じ時代を生きた者の1人として、
どうしても納得できないものがあるのだ。

きっと彼自身も悩んだことだろう。
いつまでも『
17歳の地図』や
15の夜』を歌い続けるワケにはいかないのだ。

尾崎豊の『誕生』という曲は、
父親になった自分自身の視点から過去を振り返り、
未来を見つめた内容の佳曲である。
僕はこの歌を聴いて
「なるほど、尾崎豊はこれからはこういう歌を唄っていくのか」と思った。

自分の成長とともに、ロックンローラーも
その作品を変化させなければならない。
それがうまくいかなかった場合は、
過去の遺産だけで唄い続けていかなければならないのだ。

結局、尾崎豊は『誕生』に続く作品を発表する前に亡くなり、
永遠の
26歳となった。
若くして成功し、若くして亡くなり、
そして伝説となる。
そんな生き方に憧れたこともあったが、
僕は今日も生き続けている。

成功したいかといわれれば、それはしたい。
伝説になりたいかといわれれば、
なれるものならなってみたい。
でも、自分自身とはかけ離れたイメージが先行して、
そんな風になってもイヤだなと思う。

尾崎豊が教祖・尾崎豊を演じ続けなければならなかったような成功の仕方は、
ある意味不幸だと思う。

尾崎豊のデビューアルバムのラストは『僕が僕であるために』という歌である。

 
 僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない

 正しいものはなんなのか それがこの胸にわかるまで

 僕は街にのまれて 少し心を許しながら

 この冷たい街の風に唄いつづけてる

  (作詞・尾崎豊)

尾崎豊が亡くなってから、
新宿ルイードでのデビューライブ終了後、
誰かと談笑している彼の映像を観た。

映されていたのは満面の笑みを浮かべた、
ひとりの好青年だった。


2007.02