大友裕子「傷心」


最近、このページを開くと気になることが
1つある。
画面左上の「日記を書く」というコーナーに「あなたの更新履歴」というのがあるが、
日記を
1週間ぐらい更新していないとご丁寧にも
「最近は更新がありません」と表示される。
この「最近は更新がありません」という言葉
・・・余計なお世話だと思いつつも、ついつい気になってしまう。

以前は毎日のように更新していたこの日記も、
最近では良くて週イチのペースになってしまっている。
ちょっと思い立って過去
4か月の本数を数えてみたところ
6=57=38=19=5という数字であった。
かの石田純一はかつて
「石田週八」なる異名を仲間内からつけられていたというヨタ話を聞いたことがある。
週に
8回はデートしている、しかも違う女性たちと、
ということで「週八」と名づけられたということだった。
石田純一と競うつもりはさらさらないが
=だいたいにして、いったい何をどうやって競おうというのだ!?=
僕の最近の「週一」「月一」ぶりはちょっと情けない。

僕が大好きな早川義夫さんが完全に音楽業界から引退して
川崎市の武蔵新城で書店を経営されていたいまから約
20年前、
音楽評論家の松村雄策さんのインタビューにこう答えている。

「僕は20歳で結婚して、それからは詞を書いていないのね。
他人の詞に曲をつけたりはしたけどね。伝えたいものがなくなったのかも知れないね。
ものを作るというのは、自分になにか欠けている時だから、
幸せな時には、作ることはないんだよね。
作品を作るのが目的ではなくて、幸せになるのが目的なんだから。
いまは本屋さんをやっていることに満足しているわけじゃあないからね。
いずれにしろ、歌いたいものが出てきたら、生まれてくるだろうし、
生まれなかったら、歌いたいものがないんだろうね」
(松村雄策著“リザード・キングの墓”より)

「最近は更新がありません」という文字を見るたびに、
この言葉を想い出す日々が続いている。
書きたいことがないワケではなく、早川さんがいうように「幸せな時」でもない。
のに書かないというのは、ひと言でいえば僕がサボっているからである。

日記なんだから、その日思ったこと感じたことをたとえ短くてもいいから書いて、
継続すればいいと思うこともある。
たとえば、こんな風に。

「今日は朝からお腹が不調で、ドンドコドンドコピーヒャラリーでした♪」とか。

・・・・・すみません、お下劣なたとえで。

しかし、それではダメなのである。
僕がこの日記を書きはじめたとき、
絶対にこれだけは守ろうと誓ったコンセプトがあるからだ。

そのコンセプトとは、1つの楽曲に基づいて文章を構成していくというものだ。
実はこれがやっかいなのである。
しかも
1度とり上げたアーティスト、楽曲は重複させないというシバリを設けてしまったために、
書きたいことがあってもうまく楽曲とシンクロさせることができず、
結局は文章化できなかったことも多々ある。

まあ、別にノルマがあるわけではないので書けるときに書けばいいとは思っていても、
根が真面目なものだから
(?)ついつい書かない日は
なにかやり残したことがあるような気分になってしまう。
またまたお下劣なたとえになってしまい申し訳次第もないのだが、
トイレに行っても出し切っていないような感覚に襲われるのだ。
これは精神衛生上よくない。
おまけに「最近は更新がありません」である。

ということで、今日こそは絶対に書いて
「最近は更新がありません」をブッ飛ばしてやろうと、
昨夜横になりながら決意した次第である。

で、今日とり上げる楽曲は大友裕子の『傷心』である。

ナウなヤングは大友裕子といってもピンとこないかもしれないが、
1970年代末から80年代前半のミュージックシーンを体験した人のなかには
「あ〜知ってる」という人もいると思う。

大友裕子は1959年生まれ・宮城県出身のシンガーソングライターで、
デビュー曲となった『傷心』は
1978年に行われた
16回ヤマハポピュラーソングコンテスト」において優秀曲賞を受賞、
さらに同年の世界歌謡祭では最優秀歌唱賞に輝いた。

デビュー当時、彼女はまだ大学1年生だったのだが、
黒ずくめの服にカーリーヘアというそのいでたちは当時中学
1年生の僕からすれば、
ものすごく大人びた女性という印象を受けたものだ。

いでたち以上にインパクトがあったのは、彼女の歌声である。
独特のハスキーボイスをはり上げるようにして恋人との別れを唄った『傷心』は、
ポップスというよりは演歌に近い情念の世界で、
大友裕子の登場はいまになって思えば、
まさに和製ジャニス・ジョプリンの誕生といっても過言ではなかったと思う。

残念ながら大友裕子は1982年に引退してしまったので
シンガーソングライターとしての活動期間は決して長くない。
が、『傷心』はいまも語り継がれる名曲である。

エンケンこと遠藤賢司も大友裕子の『傷心』はフェイバリット・ソングの1つで、
カラオケで唄うこともあるという。
先週の日曜日、青山ブックセンター本店にて行われた、
エンケンと荒井良二氏による宇宙一の
CDつき絵本
“ボイジャーくん”の刊行記念トークショーでも
エンケンはこの曲について触れていた。

トークショーは午後1時からだったのだが、
僕は開場時間の
12時半きっかりに会場に到着した。
そして席を確保してタバコを吸いに行こうとしたら、
ナント荒井氏ご本人が友人とおぼしき方たちと談笑されていた。
ついつい目が合ってしまったので軽く会釈したところ、
荒井氏も会釈を返してくれた。
世界的にも評価の高い大先生なのに、
おごり高ぶったところがみじんもない、実に素敵な方なのである。

エンケンと荒井氏、
そして“ボイジャーくん”発行元である白泉社の森下さんの
3人によるトークショーは
“ボイジャーくん”にまつわる話はもちろん、
猫談義から日本論にいたるまで話題は尽きず、
あっという間の
2時間だった。
トークショーの終盤、エンケンによる『ボイジャーくん』の生演奏が披露されたのだが、
これがなんともいえぬ素晴らしい演奏であった。

トークショーが終わってから、サイン会が行われた。
僕ももちろん絵本を購入し、サインをしてもらった。

絵本“ボイジャーくん”は、
先月
3日に吉祥寺のスターパインズ・カフェで行われたライブの際、
1冊購入しているので、なにもまた改めて購入する必要もなかったのだが、
僕はある
1つの目論見をもっていたのだ。

僕の友人に、
小学校で絵本の読み聞かせのボランティアをしている人がいる。
その友人にあげようと思ったのだ。

“ボイジャーくん”には、まずエンケンがサインをしてくれた。
椅子に座ってサインをしているエンケンと目線の高さを合わせるため、
僕も膝を折ってエンケンと言葉を交わした。
僕は座っている人と話すときは、
極力目線を同じ高さに合わせるように心がけている。
相手が子どもであれ、お年寄りであれ、後輩であれ、誰であれ
上から人を見下ろすような目線で話すことをできる限り避けているのだ。

別に大したことではないが、
これは僕の生き方におけるこだわりの
1つである。

僕がそんな風に思うようになったのは、
まさにオオトモという
中学
2年生のときの担任に受けた仕打ちが原因となっているのは間違いない。

そもそもの発端は学生服だった。
2のときのある日のホームルームで、
僕と仲間数人が着ている学生服が校則違反ではないかという意見が出された。
まったく余計なことをいいやがると思いながら、
僕は生徒手帳を取り出し、校則のどこにも僕らが着ているような、
裏地に刺繍がしてあったり、カラーがちょっとだけ高かったり、
袖口のボタンが
3つあったり、
内側にファスナーがついたりしている学生服を禁ずるということは書かれていないと反論した。

普通の学生服ではないから禁ずべきだという意見が大半を占めるなか、
オオトモ先生は校則に明記されていない以上、
その学生服を禁ずることはできないだろうという結論を出し、
僕らの学生服は不問となった。

安心したのもつかの間、
3年生になってすぐまた同じようにホームルームで僕の学生服が議題に出された。
僕は中
2のときのことを話し、
オオトモ先生は校則違反ではないといったと当時の担任に告げた。

女性の体育教師だったこの担任は、
僕に挑みかかるような目で
「本当にオオトモ先生はそういったんだろうね。
すぐにオオトモ先生に確認するからね」といった。
ウソをついているわけではないと自信があった僕は
「ええ、どうぞご勝手に」とはき捨てるようにいった。

次の休み時間、僕が他のクラスで遊んでいたら
同じクラスのヤツが、担任が呼んでいるといって僕を探しにきた。
用件はわかっている。学生服のことだろう。
まったくしつこいヤツだ。
よーし、一発でケリをつけてやるとばかりに意気揚々と職員室へと向かった。

職員室に入るなり、
オオトモ先生が「カツトシ、こっちに来い」と大声をはり上げた。
隣には担任の教師が立っていた。
僕がオオトモ先生の前に行くと、
オオトモ先生はさらに「ここに座れ」と大声を上げ、僕を正座させた。
そして、「オレがいつオマエの学生服を認めたんだ
!!」とまたまた大声を上げた。
僕はそのオオトモ先生の態度に言葉を失った。
悔しくて悔しくて、僕は目の前で椅子に座りながら僕を見下ろし、
僕を罵倒しているオオトモ先生を上目遣いで睨んだ。
するとオオトモ先生はさらに激高し、
「それにオマエの髮はなんだ」といいながら引き出しのなかからハサミを取り出し、
僕の襟足の髪の毛をバッサリと切った。

僕はその直前まで、オオトモ先生はいい先生だと思っていた。
しかし、そんな思いは瞬時にどこかへ吹き飛んで行った。

そして、正座させられたままこみ上げてくる悔し涙を必死にこらえながら、
僕はこう誓った。
自分がいったことをいっていないというような大人には絶対にならないこと、
そしてどんな事情や状況であれ、
誰かを上から罵倒するような大人にはなるまいということを。

別に怒るときだけではなく、
普通に話すときだって目線を合わせて話したほうが絶対に相手に伝わるに違いない。
僕はそう思う。
だから、僕は相手より極端に上から目線にならないよう心がけているのだ。

と、僕の人生論はともかく、
エンケンにサインをしてもらったあと荒井氏の前に行き、
さっきと同じ姿勢をとった。
そして友人が小学生相手に絵本の読み聞かせをしていること、
そしてこの絵本を友人にあげたい旨を伝え、友人の愛称を一筆入れてもらった。

おじいちゃん子だった僕は、幼少のころから祖父と一緒に寝ていた。
祖父にまつわる想い出は数限りなくあるのだが、
そのなかでも鮮明に憶えていることの
1つが、
小学生のころ図書館で借りてきた“雪女”を
ふとんに入りながら祖父が読んでくれたことである。

そんなこともあって、
僕の友人にぜひ“ボイジャーくん”を子どもたちの前で読んでほしいなと思ったのだ。
その読み聞かせを通じて、
1人でもいいから“ボイジャーくん”が子どものころの想い出として
心に残ってくれたらうれしいなと思ったのである。

帰宅してすぐ、
僕はサインをしてもらってきたばかりの“ボイジャーくん”を封筒に入れ、
郵便局へと持って行った。

絵本に限らず、映画であれ音楽であれ、人それぞれに好みがある。
果たして“ボイジャーくん”を友人が気に入ってくれるか心配ではあったが、
きっと喜んでもらえると信じて郵便局をあとにした。

火曜日の夜、友人から無事に届いたとのメールがあった。
メールには
全然ストーリーを知らずにページをめくり始めたのだが、
うっかりすると涙腺が刺激されると書かれていた。
それを読んで僕の涙腺が逆に刺激されたことはいうまでもない。

以前にもチラリと書いたが、誰かに喜んでもらえるというのは、
ささやかだけど人生におけるとても大きな喜びの
1つだと思う。
基本的に僕は誰かにしてあげたことに対して、過度な期待は抱かない。
ひどいヤツはお礼すらいってこない人間もいるが、
それはそれでいいと考えるようにしている。
腹も立てない。
そのかわり、僕は絶対にそんな人間にはなるまいと決意を新たにするだけである。

と、またまた僕の人生論はさておき、
とにかく友人が“ボイジャーくん”を気に入ってくれたことは、
僕にとって本当に涙が出そうなくらいうれしい知らせであった。

さらに昨日の朝、その友人からわざわざ電話があった。
さっそく学校で小学
5年生の子どもたちに読んであげたところ、
身を乗り出すようにして聞いている男の子もいたという。
さらに、友人が読み聞かせを終えて教室を出たら、
担任の先生がわざわざ廊下まで出てきたという。
そして「いい、おはなしでした」と深々と頭を下げお礼をいったというのだ。
ふだんは無愛想な先生がそんなことをいってくれたことに対し、
友人は感激していた。

“ボイジャーくん”は僕がつくったものではない。
僕がしたことといえば購入し、サインをもらい、発送しただけである。
でも、その絵本がそれほどまでに喜んでもらえると、
僕までなんだかいいことをしたような気になる。

当たり前のことだが、人生いいことばかりありゃしない。
それこそ「傷心の日々」を送ることだってある。
昨日、友人が“ボイジャーくん”を読んで聞かせた子どもたちだって例外ではない。
これから成長していけばいくほど、辛いことや腹が立つことは増えていくだろう。

僕が一度も会ったことのない子どもたちの心のなかで、
大宇宙を飛び回る“ボイジャーくん”が
いつまでも生き続けてくれたらいいなと思う。


2008.10