奥田民生「さすらい」


わが半生に後悔はない。
が、そうはいったものの、
若い頃に経験しておけばよかったなと思うことがある。

合コン・・・ではない。
ひとり旅である。

自称ボヘミアンとしては、
やはり放浪とか、ひとり旅というのはマストアイテムである。

僕が尊敬するロバート・ハリス兄の話を聞いたり、
本を読んだりしていたら、もっと若いうちに、
いろんなところに行って、いろんな人に会って、
いろんな経験をしておきたかったなとつくづく思わされた。

影響を受けると、すぐ行動に移したくなるのが僕である。
無性にひとり旅に出たくなった。
その頃、僕はすでに
30歳を過ぎていた。
ひとり旅初体験にしては遅すぎる年齢ではあるが、
念願のひとり旅に出かけた。
行き先は沖縄、
23日という小旅行ではあるが
ワクワクしながら羽田空港を離陸した。

沖縄はそれ以前にも行ったことがあったが、
ひとりで回る沖縄はまた格別な楽しさがあった。
なんてったって、どこに行くのも、
なにをするのも自由なのである。
僕はなんの予定も立てずに、気ままな旅を楽しんだ。

2日目の夜、僕は名残惜しい気持ちで那覇市内を徘徊していたところ、
偶然にも喜納昌吉さんが経営しているライブハウスを見つけた。
店頭に出された看板によると幸運なことに、
喜納さんのライブが行われているらしい。
僕は迷わず、店内へと入っていった。

店内は超満員だったのだが、
これまた幸運なことに最前列にひとつだけ空席があり、
そこに案内された。

ライブは最高潮に達していた。
頼んだビールに口をつけたか、
つけないかのうちに『ハイサイおじさん』の演奏がはじまり、
みんな踊りだした。
僕もノリ遅れてはならないと立ち上がり、
見よう見まねで踊りだした。
『ハイサイおじさん』に続き
『花』が演奏され、喜納さんのライブは終わった。

ライブの余韻のなか、
同じテーブルに座っていたグループに、
どこから来たのと話しかけられた。
僕は東京から来たことに続けて、
明日は沖縄返還の日であることと、
僕は僕なりに沖縄の基地問題には
関心を抱いているということを話した。

ら、とたんに彼らの目が輝きだした。
で、「明日、一緒に嘉手納基地に行こう」と誘われた。

嘉手納基地でなにをするのかと聞いたら、
基地周辺をデモ行進するという。
僕はデモが大嫌いなのだ。
だてに「デモに行くやつは豚だ」といった寺山修司に、
少年時代から影響を受けてきたわけではないのだ。

しかし旅は道連れ、世は情け。
せっかく誘ってくれたのだから行ってみようと思い、
快諾した。

そのグループは喜納さんと親しいらしく、
先ほどライブを終えたばかりの喜納さんに僕を紹介してくれた。
その際、その人は僕のことを「今日出会った兄弟」といってくれた。

なんとなく人間関係が希薄に時代に、
そんな濃密な言葉で僕を紹介してくれたその人のことを
僕も兄貴と呼ぶことに決めた。

明朝10時に嘉手納基地のなんとかゲートの前でと約束を交わし、
その夜は兄貴たちと別れた。

翌朝、那覇からバスでコザに向かい、
歩いて嘉手納基地へと向かった。
この日の夕方には沖縄を離れる予定であった。
僕は、もっとここにいたいと思った。
もっといれば、もっともっと素敵な仲間と出会えると思ったのだ。

515日、沖縄返還の日。
嘉手納基地前には、全国からさまざまな人たちが集まっていた。
そして、基地のまわりを歩き出した。
てっきり僕はシュプレヒコールを上げながら行進するものだと思っていのだが、
ギターの伴奏に合わせて唄ったり、手を叩いたりしながらの行進であった。

ただの通りすがりに等しい僕が沖縄の人たち、
そして全国から集まってきた人たちと一緒に、
嘉手納基地を歩いている。

昨日の夜までは想像もしていなかったことだ。
こんなハプニングもひとり旅ならではである。

途中大雨に降られたりしたのだが、
トラブルもなくお昼過ぎ行進は終了した。
僕は仲間一人ひとりと握手を交わし、
帰京のため那覇市内へと戻った。

その日の夜、東京に向かう飛行機のなか、
とても満ち足りた気分になった。
いい旅を体験できたと思った。
そして絶対、また旅に出ようと思った。

あれから早10年近く。
なかなかその機会は訪れていない。
しかし人生は続く。
まだまだ続く。
「さすないもしないでこのまま死なねえぞ」
 
(奥田民生作『さすらい』より)である。


2007.02