NSP「青い涙の味がする」


暑い。暑い。暑い。暑すぎる。

つくづく思うのだが、近年の東京の暑さは異常である。
僕が子どもの頃、日本は温帯地方と教えられたが、
いまの東京の夏は限りなく亜熱帯に近いと思う。

以前、中村敦夫さんと東京の暑さについてこぼしていたとき、
敦夫さんは「そのうち東京でもバナナが穫れるようになるよ」と語っていたが、
ここ数年の暑さを思うとあながちそれも
SFの世界ではなさそうに思えてしまう。

現在、池袋の新文芸坐において、
市川崑監督の作品を日替わりで
2本ずつ上映するというイベントを行っている。
先週の土曜日は尾藤イサオ、小倉一郎、萩原健一主演の“股旅”と、
ご存知“帰って来た木枯し紋次郎”が上映された。
この日は敦夫さんがトークショーのゲストに来られるというので、
僕も仕事をほったからしにして勇んで出かけてきた。

敦夫さんと最後に会ったのはいまから8年前の秋だった。
当時住んでいた地元での、衆議院補欠選挙の応援にやって来た敦夫さんと
高幡不動駅前でバッタリ会ったのだ。

もともと僕は
敦夫さんが参議院議員になった直後に旗揚げした政党の一員として名を連ねていたのだが、
この頃はなかなかその活動に参加できなくなっていた。
本来であればこの補欠選挙も
地元であるがゆえ先陣を切って手伝わなければならない立場にあったのだが、
僕がこの選挙でしたことといえば、
敦夫さんの第一秘書と
2人で立川を歩き回り、選挙事務所を探したことぐらいだ。

僕はいまでもこのときのことを申し訳なく思っている。
敦夫さんにはいろいろとかわいがってもらったのに、
最終的に僕は敦夫さんが後に立ち上げた「みどりの党」には参加せず、
敦夫さんの政治家としての最後の戦いとなった
2004年の参議院選挙では、
なにひとつお役に立てなかった。

そんなホロ苦い心残りを抱えたまま、
新文芸坐で久々に敦夫さんを見た。
敦夫さんは軽妙なトークで満場の観客を沸かせていた。

この日のトークではじめて知ったのだが
崑監督は当初、紋次郎役に沢田研二を考えていたらしい。
しかし、“木枯し紋次郎”はそもそも崑監督が
映画製作の資金づくりのために引き受けた仕事である。
ジュリーを起用などしたら、ギャラが高すぎて資金づくりがままならない。
そんな事情もあって「背が高く」「顔が面長で」「ギャラが安い」という
三拍子揃った敦夫さんが抜擢されたわけだが、
崑監督がジュリーを想定していたというのはまさに初耳であった。

もちろん僕は子どもの頃から今日にいたるまでジュリーが大好きであるが、
ジュリー演じる紋次郎となると
「うーん、さすがにそれはどうかな
?」と首をかしげてしまう。
だいいち敦夫さんと比べると、ジュリーは上背が足りない。
やはり紋次郎は敦夫さんでなければ成り立たないと思うし、
後年、崑監督も
「木枯し紋次郎は中村敦夫以外でつくってはいけないのではないか」と
語っていたということを聞いたことがある。

敦夫さんのトークショーは45分ぐらい行われ、
最後は新文芸坐のスタッフの方が
「そろそろ、このへんで」と止めに入るほどの盛り上がりだった。

敦夫さんはリメイク版“犬神家の一族”を撮影していたとき、
まわりの誰もがこの作品が崑監督の最後の作品になると思っていたと語った。
だから予算もふんだんに使い、
今日の映画撮影ではなかなかあり得ないような「曇り待ち」などという
贅沢なことも許されたと語った。
でも崑監督はこの映画が最後の監督作品だとは思っていなかったらしい。

“犬神家の一族”の完成披露試写会で崑監督はナント
「次はもっとマシな映画をつくります」といったというのだ。
これには敦夫さんをはじめとするまわりの人たちも驚いたと、
敦夫さんは笑いながら語ってくれた。

最後に僕がこの日いちばんビックリしたというか、
刺激を受けた崑監督のエピソードが敦夫さんから披露された。
崑監督が亡くなる当日、
意識不明のなか「よーい、スタート」と崑監督が大きな声を出されたというのである。
この声を看護婦さんが聞いたそうだ。

死を間近にしてなお、崑監督は映画をつくろうと思っていたと考えると、
「いったい、いまのおまえはどうなんだ
!!」と自分を省み、
長ドスを突きつけられたような気分になる。

崑監督が“木枯し紋次郎”に携わることで資金を集め、
製作したかった映画が“股旅”である。

しかし、当時の映画界はまさに斜陽で十分な資金集めができず、
撮影隊のロケバスすらなかったという。
そんな悪条件のなかで製作された“股旅”について、
崑監督は「
途中でフィルムが足りなくなったりいろいろ苦労はしたけど、
そうした素朴な製作プロセスのなかで、僕自身も若返ったというか、
映画づくりの原点に返ったような気がした」と後年語っている。
当時すでに日本を代表する映画界の巨匠が、
そんな悪条件をものともせずにつくりあげた作品なのである。

この崑監督の姿勢から僕は、映画をつくりたいというほとばしるような情熱と、
映画をつくることこそが何ものにも代え難い喜びとする崑監督を感じずにはいられない。


僕が属している広告業界も、いまなお状況は芳しくない。
とにかく何をやるにも予算が少ない。
キャンペーンをやりたいのだが、という相談を受けて予算を聞いてみて、
ついつい「そんな予算じゃ何もできませんよ」といってしまうことがある。
それはプロとしてすごく恥ずかしいことだと反省しなければならない。

さらに崑監督は、もし再び“股旅”製作時のような条件下でも
好きな素材を撮れるとしたらおやりになりますか
?という質問に対し、
「もちろん」と答えたという。
この当時、すでに
80歳近くの巨匠は、こう言葉を続けている。
「それこそが僕がずっと理想としてきた映画づくりだもの。
ああいう気持ちはいまだに持ち続けていますからね」

“股旅”は尾藤イサオ、小倉一郎、萩原健一演じる3人の若い渡世人を描いた、
一種の青春群像ものである。
しかし、ハッピーエンドではない。
エンディングは唐突に訪れる。
「えっ
!?」という感じで終わるのだが、
それがまた崑監督らしいといえば崑監督らしい。

僕が前述の衆議院の補欠選挙のさなか、
地元で自主上映会を行うべく奔走していた“新選組”もそうであった。
沖田総司の死とともに、まさにシャッターをバタンと下ろすように、終わったのだ。
“新選組”もまた、ある種の青春群像映画であることを考えると、
この
2つの映画にはどこか共通するテーマが見えてくるようで興味深い。

青春なんて言葉は僕自身、こっ恥ずかしくてあまり使ったことがないし、
自分の青春時代が果たしていつから始まったのかも怪しげである。

中学2年生の夏、
ラジオからよく流れていたのが
NSPの『青い涙の味がする』という曲である。
「青春なんて言葉を手のひらで握り潰してた
 あの頃の僕たちさ」
(作詞・天野滋)という歌詞が示す通り、
大人になって青春時代を懐かしんでいる歌なのだが、
42歳のいま、この曲を振り返ってもなぜかピンとこない。

サミエル・ウルマンの詩ではないが、
青春なんてものは人生のある一定期間を指すのではないと思う。
歳を重ねたから、青春とはオサラバではないのだ。

市川崑監督は、死ぬまで永遠の映画少年であり、
青春を生き抜いた人だと思う。
願わくば僕も、そうありたい。

敦夫さんのトークショーが終わってからタバコを吸っていたら、
隣に評論家の大宅映子さんによく似た方が座られた。
そして、そのまま
20分ばかり世間話をした。

この方は、ご自身で後期高齢者とおっしゃられていたので、
すでに
75歳を超えているのだろう。
しかし、タバコを吸いながら話す声も口調も、
まったくそんな年齢を感じさせないものだった。

聞けばこの方は“木枯し紋次郎”が放映されていた1972-73年当時は外国にいらして、
紋次郎を観ていないのだという。
で、敦夫さんがゲストで来るということもあり出かけてきて、
はじめて紋次郎を観たのだそうだ。

作品について絶賛すると同時に、
この方は「中村さんって本当に素敵な方ですね」と興奮気味に語ってらした。
そして、あまりにも素敵なのでサインが欲しかったのだけれども、
もらえなかったのが残念だとおっしゃられていた。

僕はその言葉を受けて、こういった。
「でも、敦夫さんからサインをもらうチャンスはまだまだあるかも知れないじゃないですか。
それを人生の楽しみにするというのも、ひとつのテですよ」

僕のそんな無責任な言葉を受けて、その方はこう続けた。
「そうだわね。それを楽しみに元気でがんばりましょう」

そう語る、この方の表情は
まさに憧れのタレントに会いたいと熱望する
10代の少女のようであった。

別れ際、
「久しぶりに若い方とお話ができて、とても元気をもらったわ。ありがとう」と
いってくださった。

ありがとう、はこちらのセリフである。

ここしばらく、思うようにいかないことが多かったり、
さらには「なんでそうなるの
?(byコント55)といったことがあったりで
少々心が疲れていたのだが、
久しぶりに見ず知らずの人と話して、
楽しんでもらえたことで僕も元気をもらった。

やっぱり僕は、
誰かに喜んでもらえることがいちばんのエネルギーになるんだ、
ということを再確認できた。
そして、いくつになってもエバーグリーンな気持ちでいることの大切さを、
あらためて痛感した。

僕は神も仏も信じないが、天使の存在は信じる。

天使が隣でタバコを吸っていることだってあるのだ。


2008.07