松崎しげる「愛のメモリー」


今朝、新聞をパラパラとめくっていたら、
星野仙一が
WBCの監督を「万が一にもやりません」と
自身のホームページでコメントを発表したという記事が掲載されていた。
記事によると
「現在の
(就任に)否定的な世論やメディアのなかで
たとえやったとしても決して盛りあがることはないだろうし、
またそうした支持がなかったら成功なんかするわけもない、
球界がひとつになることもままならないだろうと思う」と発言しているという。


この記事を読んで、僕はあらためて思った。

星野仙一はクズだ、と。

この夏、北京オリンピックで野球の日本代表がメダルを逃したことを受けて、
僕はそのことを文章化しようと思ったのだが、やめた。
世の論調の多くが星野バッシングをするなか、
同じようなことを書いても仕方がないと思ったからだ。

すでに結果がわかっているので、
後出しジャンケンのような文章になってしまうが、
正直いえば僕はオリンピック前から
野球日本代表はメダルはとれないだろうと思っていたし、
下手すれば予選落ちの可能性だってあると思っていた。

その根拠は何か?
試合を直前に控えた数日前までテレビのニュース番組に出演している星野を見て、
どう考えても星野はオリンピックをなめてかかっていると思えたからだ。

日本はWBCのチャンピオンである。
その日本を打倒しようと他国がやっきになってしっかり準備をしているなか、
悠長にテレビに出演して偉そうなことをいってる場合ではないだろうと思ったのだ。

「金メダル以外はいらない」という星野の言葉は勇ましい。
しかし、僕はその発言に星野の驕りを見た。

オリンピックで敗退すると、
星野は「敗軍の将、兵を語らず」とコメントした。
その一方で、試合開始時間が早すぎただのなんのかんのと言い訳をした。

敗軍の将が、兵を語らないのはいい。
だが敗軍の将は潔く負けを認め、縛につかねばならない。
のに、星野の態度はさも負けた理由が
将たる自分以外にあるということをアピールしているように思えて仕方がなかった。

試合開始時間が日本のプロ野球ではあり得ない午前中であれば、
それに順応すべくしっかりと準備をし、
万全の状態で兵たる選手たちを戦いの場に送り出すのが将たる者の務めではないのか
?

星野仙一という人のイメージは、
現役時代から北京オリンピックに至るまでまさに「闘将」であった。
「漢」
(おとこ)であった。
その星野にみんなが期待をして、
また全権監督として球界全体をあげて星野に協力をしたというのに、
それに応えることができなかった敗軍の将・星野仙一の態度・言動は
少なくとも僕には潔くないなと思えたし、これで男を下げたなと思った。

かつてノムさんこと野村克也監督が阪神の監督時代、
成績不振と夫人の脱税疑惑を理由に辞任した。
ノムさんの推薦もあって後任として阪神に招かれたのが、
当時中日の監督を勇退したばかりの星野だった。
このとき星野はあえて火中の栗を拾うという態度をアピールし、
阪神の監督に就任。世の喝采を浴びた。

そして2003年、阪神を18年ぶりのリーグ優勝に導いた。


このことにより、星野は押しも押されもせぬ野球界の一大ブランドとなった。

しかし、世の星野礼賛ムードのなか、僕はある違和感を覚えていた。
ちょっとチヤホヤし過ぎではないのかと思ったのである。

ヤクルトファンの僕は、あの弱小スワローズを4度のリーグ優勝、
3度の日本一に導いてくれた野村監督に大恩のある身なので、
どうしてもノムさん贔屓になってしまうのだが、
星野阪神の優勝もノムさんが蒔いた種があったからではないかと思ったのだ。
たしかに監督・星野の実績は認める。
あの時期、低迷していた阪神を優勝まで導いたのだからスゴイとは思う。

けど、僕はその星野礼賛ムードの輪にはどうしても加われなかった。
あまりにも過大評価をし過ぎる
星野バブルのように思えて仕方がなかったのである。

北京オリンピックでの敗退は、
星野の野球人生にとって大きな挫折だったと思う。
その悔しさはいかほどばかりか、
たぶん僕なんかが想像する以上であろう。

だからこそ、星野には毅然として欲しかった。
試合開始時間がどうたらと言い訳なんかして欲しくなかった。
自分が足りなかった部分を素直に認めた上で、
それでも、極端なことをいえば
「俺がやってダメだったんだから、
なにをどうしたってダメだったんです」ぐらいいって欲しかった。

それが星野仙一という男ではなかったのだろうか?

今回のWBCの監督就任問題について、
たしかに星野には逆風が吹き続けていた。
しかし、僕は逆風に立ち向かってこそ星野仙一だったと思う。

監督に就任するしないは、もちろん星野自身が決めることなので
僕がどうこういうものでもないが、
今日の新聞に掲載されていた星野のコメントを見て、
逆境に弱い情けねえヤツだなという思いを強くした。

同じく今朝の新聞のスポーツ欄には、
WBC(っても、この場合はワールド・ベースボール・クラシックではなく、
世界ボクシング評議会のこと
)バンタム級王者、
あの辰吉丈一郎が今月
26日にタイで再起戦を行うという記事が載っていた。
21歳の若さで世界の頂点に輝いた辰吉は今年38歳になる。
その辰吉が「もう
1回、世界のベルトをとる。大まじめや。
笑いたいやつは笑えばいい」といっている。「世間からすると、ぼくは過去の人。でもよみがえってみせる」といっている。
そして現役ボクサーとしてのブランクの大きさを受けて
「パンチは見えているのに、よけられへん。自分の体やないみたい」といいつつも
「逃げたらあかん。欲しいものが逃げてしまう」といっている。

僕はこの辰吉の姿に、あらためて心を熱くした。
記事によると所属ジムから引退を勧告され、
日本ボクシングコミッションの規定では試合もできないという四面楚歌状態のなか、
辰吉はいまでも朝
5時に起きて約40分のロードワークをこなし、
さらには体重維持のために
11食の生活を送っているという。

辰吉丈一郎という男は、本当のボクシング馬鹿なのである。
馬鹿もここまでくると神々しい。

果たして辰吉が再び世界の頂点に立てるかどうかはわからない。
正直、厳しいであろう。なかには無謀だという人もいると思う。

だが、僕は辰吉にエールを贈りたい。
僕が大好きなオスカー・ワイルドの
We are all in the gutter,but some of us are looking at the stars”という生き方を
まさに実践しているような辰吉に心からエールを贈りたい。

辰吉の記事が載っていた新聞の前ページには、
埼玉西武ライオンズが日本シリーズ進出を決めたという記事が載っていた。

今年からライオンズの監督に就任した渡辺久信の野球人生も、
順風満帆ではなかった。

渡辺久信は19658月生まれなので、僕と同学年である。

1984年、ドラフト1位でライオンズに入団するやいなや1年目から1軍に定着。
順風満帆のプロ野球人生のスタートを切り、
80年代半ばから90年代前半にかけて西武の黄金期を支えた。

当時、僕が担当していたクライアントが
テレビ埼玉のライオンズ中継のスポンサーをしていた。

そのため仕事絡みでライオンズに関連することが多く、
いっときはあの『愛のメモリー』で知られる松崎しげるが唄う
「ウォウウォウウォー、レオ〜♪」というライオンズの応援歌というかテーマソングを
毎日のように耳にしていたこともある。
けっこう耳にこびりつくのだ、あの歌は
!!()

とはいえ辛いばかりが仕事ではなく、予期せぬご褒美もあったりして、
西武の優勝パーティに参加させてもらったこともある。
もちろんそこには渡辺久信のみならず、
清原、工藤、秋山、辻、伊東といった当時の主力選手たちも来ていた。
間近で見た渡辺久信は、本当にカッコ良かった。
若い女性たちにワーワーキャーキャーと囲まれながら、
握手や写真、サインを求められている渡辺久信の姿を見て、
「めちゃめちゃモテるんだろうな。同学年でも、オレとはこんなに違うものか」と
半ばやっかみながらパーティ会場の隅で水割りをすすっていた日のことを懐かしく想い出す。

そんなスター選手だった渡辺久信に大きな転機が訪れたのが、
1997年のことである。
ライオンズから戦力外通告を受けたのだ。
それは想像するまでもなく、渡辺久信にとって大きな挫折であったに違いない。
翌年、ノムさん率いるヤクルトに移籍するも、
かつての輝きはとり戻せず、ヤクルトからも戦力外通告。
普通なら、ここで腐る。燃え尽きる。と、僕はそう思う。

しかし、渡辺久信は活躍の場を台湾に求め、
選手兼コーチとして海を渡った。
そして
1年目から18勝を挙げ、台湾球界にその名を轟かせた。

渡辺久信も這い上がってきたプロの1人なのである。

いまの渡辺久信を見てつくづく思うことは、
カッコつけないことはなんてカッコいいのだろう、ということである。
素の自分自身に自信があれば、信念をもって生きていれば、
若いころの自分と比べて髪の毛がどうのこうのとか、
太ったどうのこうのなんて、そんなことどうでもいいんだろうなと、
まだまだ未熟な僕は同学年の渡辺久信から教えられている。


2008.10