松原みき「真夜中のドアStay With Me

先日、チラリと書いたが、
僕がはじめてお酒をおぼえたのは中
2のときだった。
その頃、僕は中ランと呼ばれる小イキな
(小さくイキがっているの意)
学生服の内ポケットにラークをしのばせて調子こいてたものだが、
お酒に関してはまったく興味がなかった。

ウチの近所には酒グセの悪い人がたくさんいて、
子ども心に「絶対、あんな大人にはなるまい」と思っていたからだ。
酔っ払いは世界でいちばん大嫌いだった。
だから、僕はお酒を飲むまいと心に決めていた。

そんな僕にお酒をすすめたのは、同じクラスのハヤサカだった。
スポーツバッグにナポレオンをしのばせ、学校に持ってきたのだ。
ちょうど季節はいまごろである。
部活のためサッカースパイクをはき、
グラウンドに出ていこうとしていたら、ハヤサカに呼び止められた。

「これを飲んで、あったまっていけ」というワケである。

正直いって、僕は躊躇した。
生涯お酒は飲まないと決めていたのに、
その決意は風前の灯である。
それまでも僕の目の前で酒を飲んだ友だちはたくさんいたし、
僕もすすめられたことがあった。
しかし、僕はそれをかたくなに拒んできた。

このときも、いったんは断ったような気がする。

が、学生服のポケットにラークをしのばせているようなヤツが
何をぬかすかという勢いで、無理やり飲まされた。
味はおいしいともなんとも思わなかったが、
ひと口含んだ未知の液体が食道をつたっていくとき、
これまで体験したことのない心地よい熱さをおぼえた。

以来、他の悪友も含めて僕らは、学校にお酒を持ち込んでは、
チビチビと飲むようになった。
不思議と、バレることはなかった。

この時期によくラジオから流れていたのが、
松原みきの『真夜中のドア/
Stay With Me』である。
この松原みきのバックバンドにいたのが伊藤銀次で、
松原みきがテレビ神奈川のファイティング
80’sに出演した際、
番組レギュラーだった佐野元春を知り、
その後、銀次は佐野くんのバンド、ハートランドに参加した。

デビュー当初の佐野くんに銀次が与えた影響ははかりしれない。
いわばこの曲がなかったら、日本のロックシーンの歴史は違っていたかも
・・・『真夜中のドア』は僕のなかでは、そのぐらい重要な曲である。

夜、僕はよく“Tokyo MX”を観る。
ちょうど仕事を終え帰宅する頃の
0時半からスタートする通販番組のなかで、
よくかつてのヒット曲を集めたコンピレート
CDの紹介をやっている。
『真夜中のドア』もそこで、よく流れる。

Stay with me 真夜中のドアをたたき
 帰らないでと泣いた あの季節がいま目の前」
(作詞・三浦徳子)
というフレーズを聴くたびに、中2のあの冬がよみがえる。

人生において真夜中のドアを叩いたこともなければ、
帰らないでと泣いたこともない。
ましてやあの季節ははるかかなたへと過ぎ去ってしまったが、
この曲は今もリアルに僕に響いてくる。

ところで中2のときはバレなかった学校飲酒であるが、
3のときにバレてえらいことになったことがある。
修学旅行で、みんなで飲んでいたら、
1人が真っ赤な顔になってしまいバレたのだ。

そのときは、旅行先の部屋でクラスの大半のヤツが
「オレにも、オレにも」と飲んだ。
しかし教師に怒られたのは、僕を含むわずか
5人だった。

修学旅行から帰ってきて最初の登校日、
僕ら
5人はクラス全員の前で謝らせられた。
学級委員をやっていたオカザキというヤツが、
僕らを前にクラス全員に向かってこう語った。
「悪いのは彼らだけじゃなく、彼らを止められなかった僕らにもある」。


その言葉を聞いて、僕は無性に腹が立った。
「てめえだって、飲ましてくれって飲んでたじゃねえかよ」と心の中で叫びながら、
オカザキの上っ面だけの美辞麗句を
はらわたが煮えくりかえる思いで聞いていた。
こんなヤツがいい大学に入って、
エリート街道まっしぐらに大人になって、
きっと出世していくんだろうなと思うと、
いいようのない怒りをおぼえた。

メインストリートを行くヤツは、勝手に行け!
オレは、おまえみたいな小汚ねぇヤツにはなりたくねぇよ
!!

僕の「ワイルドサイドを歩け」人生はこのとき、
はじまったといっても過言ではない。

もし、中2のあの冬にお酒を飲んでいなかったら、
僕の人生は違っていただろうか?

なあ〜んてことを考えるのは野暮なことである。
僕はいまの僕でいい。
後悔なんか、なにひとつしていない。
いいことも悪いことも全部ひっくるめて、
過ぎ去ったことはすべて
OKなのだ。


2007.01