L.B.アソシエイション「失われたボールをもとめて」


さっき一昨日の午後以来の外出をした。
といっても、近くの郵便局に請求書を出しに行っただけなのだが。
昨日は一日中、仕事と格闘していた。
僕はどちらかといえば、
始めようと思ったらスグに仕事モードに入れるし、
仕事も早い方だと思うのだが、昨日は全然ダメだった。
朝起きて、身支度を整え、いざ仕事に取りかかろうとしたのだが、
まったくアタマが動かないのだ。
言葉が何も浮かんでこないのである。
こういうときは辛い。
ホントに辛い。
何かを考えようとしても、
浮かんでくる言葉は「スッポロヒョーン」とか
「ズースカピー」といった言葉ばかりである。

僕は経験則で、
こういうときはムダにあがいても仕方がないことを知っている。
仕事をするのをあきらめ、
タモリのインチキ外国語芸の映像を観ながらゲラゲラ笑っていた。

タモリが初期のころに出したCDが再発されるという、
うれしいニュースを先日知った。
タモリの
4か国語麻雀やハナモゲラ語は少年のころから大好きで、
よくテレビで観ていたものだが、
タモリの芸で一番好きだったのは、
やはり寺山修司のモノマネである。

寺山独特のボソボソとした青森弁で、
いかにも寺山がいいそうなことをタモリがマネしていた。
それは形態模写というよりも、
思想模写というべきすぐれた芸であった。

寺山の没後10年を記念して、
1993年にトリビュートアルバムが発売された。
大槻ケンヂくんが寺山の短歌集“田園に死す”のなかの歌を詠むというか絶叫し、
辻仁成が渋谷の駅前で寺山の“事前のフォークロア”を朗読する他、
さまざまなアーティストがさまざまなアプローチで
寺山ゆかりの作品を読んだり唄ったりしているコンピレものなのだが、
僕がいちばん期待したのがタモリによる寺山修司のモノマネであった。

タモリのモノマネが聴ける、
ただそれだけのためにこの
CDを買ったといっても過言ではない。

タモリはこのCDにおいて、
寺山修司の語り口でロス疑惑について語っていた。
寺山が亡くなったのは
1983年の54日。
あの、ロス疑惑が報道される前年である。
当然、寺山がロス疑惑について語ったことはない。
のだが、タモリはいかにも寺山がいいそうなことを、
例によって寺山修司風に語っていた。
僕は満足げに、何度も何度もその見事なまでの芸に聞き惚れたものだ。

このトリビュートアルバムのタイトルは
『失われたボールをもとめて』というもので、
オープニングは
L.B.アソシエイションというユニットによる、
オリジナルのタイトルソングであった。

このユニットにはサエキケンゾウや
松尾清憲といったミュージシャンに混じって、
なぜか当時テレビ番組の司会やドラマなどで活躍していた鈴木杏樹がいた。
何ゆえ、鈴木杏樹
??と思いながらその曲を聴いてみたところ、
意外と良かったのである。
鈴木杏樹のヴォーカルが。
透明感のある声で、メロディラインともマッチしていた。

聞けば鈴木杏樹はかつて、
シンガーを志しイギリスに留学していたという。
そして
1990年にKAKKOという名でデビューしているというではないか。
僕はその意外な経歴に驚くとともに、
ヴォーカリストとしての鈴木杏樹の魅力を知った。

しかしその後、彼女が音楽活動を行ったかどうかは定かでない。
シオノギ製薬提供の長寿音楽番組
“ミュージックフェア
21”の司会を務めているというのは知っているが。

あらためて芸能界というのは、生き残るのが大変なのだなと思う。
芸能活動において、したいこととできることは別モノなのだ。

タモリはハナモゲラ語やイグアナ芸を封印し、
国民的なお茶の間の人気者となった。
鈴木杏樹は音楽活動を封印し、一時は「
CMの女王」とまでいわれた。

10数社のCMに出演し、爽やかな笑顔を振りまいていたころ、
鈴木杏樹はいったいナニを考えていたのだろうか
?
そしてかつての密室芸を集めた初期の作品が再発されるにあたり、
タモリはナニを考えるのだろうか
?

昨日、タモリのインチキ外国語芸の映像を観ながら、
そんなことを考えていた。

ら、アタマが急に冴えてきて、僕の仕事もハイペースではかどり、
なんとか無事に終えることができた。
めでたし、めでたし。


2007.10