楠瀬誠志郎「ほっとけないよ」


振り返れば僕が恋に落ちてしまうパターンの大半はこうである。
なにか困難な状況を抱えていたり、
つらい過去を背負っていたりという話を聞くと、
ついつい「僕がなんとかしてあげなければ」と思ってしまうのである。

まさに楠瀬誠志郎の1991年のヒット曲『ほっとけないよ』の世界である。

 「叶わない夢は見ない」と泣きながら

 ホントは今でも心に吹く風を感じているのに

 人波の中ただ立ち尽くしてる

 君は壊れそうで悲しすぎて

 同じ痛みを隠したまま

 ほっとけないよ君を 早く強く抱きしめたい

 ほっとけないよ愛を 濡れた瞳忘れる日まで

  (作詞・並河祥太)

幼少の頃から“木枯し紋次郎”を観て、
「あっしには関わりのねえこって」という生き方を学んできたはずなのに、
どうもそういう話を聞いてしまうと感情移入をしてしまう。
おせっかいといえばそれまでなのだが、
どうも聞いてしまった以上、なんとか元気づけてあげなければと思い、
それが高じてその子のことを好きになってしまうのである。

そんな風にして僕はいままで何人かの女性と恋愛してきたのだが、
そういう子に共通していることは
(半ば偏見かもしれないが)
どこか屈折しているということである。
普通に、正直に話しているだけなのに人の言葉を裏読みしたり、
揚げ足をとったり、急にヒステリックになったりし、その都度衝突を重ねた。

僕も若くて、未熟だったこともあるが、
少なくても僕にはなんでそうなるのか理解できなかった。
僕はこんなにキミのことを大切にしているのに、
なんでこんなことをいわれたり、
こんな風にされたりしなきゃならないのかと何度も思った。
そして、そのうち僕は疲れてしまい、
結局は別れてしまうということを何度か繰り返した。

人を好きになるということは、すごく楽しく幸せなことではあるが、
その一方で痛みも伴う。
それはその相手の負の部分や過去も、
すべて引き受けなければならないからだ。

それは僕にとっては簡単なことではなかった。

僕はひとつの恋が終わるたび「オレは恋愛に向いてないんだ」と思い、
もう人なんか好きななるのはよそう、
適当に遊ぶのはいいけど絶対に好きにはなるまい、と固く決意したものだ。

しかし、そういうときに限って、
またややこしい話を僕にしてくる女性がいるもので、
性懲りもなくまた恋愛をしてしまう。

僕は自分の意志の弱さにほとほと愛想を尽かしたものだ。

僕のことを
「あなたぐらい寂しい目をしている人はいない」といった人がいる。
いつも座の中心で笑いをとっていた僕は、
そんなことをいわれたことがなかったのでドキッとした。
自分の本質を見抜かれたような気分だった。

たぶん幼少の頃、
母親と接することが極端に少なかったことが影響しているのだと思うが、
僕は「愛されたい」「やさしくされたい」
「ほめられたい」という願望が人一倍強いと自己分析している。
それを他人に悟られたくないから、
努めて明るく振る舞っている部分があると思う。

ある意味、人間というのは
40歳を過ぎても一人の子どもなんだなと思うときがある。
そして「ほっとけないよ」という自分は、
実は誰よりも「ほっとかれたくない」人間なんだなと思うときがある。

今朝も、週末恒例のジョギングに出かけてきた。
8時ぐらいだというのに、親子連れの姿をたくさん見かけた。
東京に遊びにきているであろう親子、
これからどこかに遊びに行こうとしているであろう親子
…みんな楽しそうで幸せそうに見えた。

夏休みも、もう1週間あまりである。
9月になれば季節は確実に秋へと向かう。

2007年の夏、最後の週末である。みんな楽しい週末を♪


あっ
!! いま思い出したが、8月の最終土曜日ということは、
今日は浅草のサンバカーニバルではないか
!?
不覚である。
今日はこれから桜新町へ出かけねばならないのだ。残念。


2007.08