久野綾希子「アルゼンチンよ、泣かないで」


いま最も旬な女優は、菅井きんさんである。
といったら、読者諸君は笑うだろうか
? 
僕は大真面目である。
菅井きんさんは
82歳にして、
このほど映画“ぼくのおばあちゃん”で初主演をされた。
しかも
82歳の主演女優というのはギネスブックも認定の世界記録だそうである。

そんなこともあって、最近はよく菅井きんさんのお名前を目にする。
先週は朝の
NHKの番組にもご出演されていた。

菅井きんさんといえば、
子どものころから食堂のおばちゃん役などでよく目にしていたし、
また大好きだった“必殺シリーズ”の姑役でもお馴染みだったが、
僕が菅井さんの演技に対して「この人はすごいな」と思わされたのが、
1984年に公開された伊丹十三監督の“お葬式”である。
この映画で菅井さんは主演の宮本信子さんのお母さん役を演じた。
主人を突然失った喪主の役である。

この映画のラスト近くで、
菅井さんが喪主の挨拶をするシーンがあった。
夫を失った悲しみを必死に抑えながら健気に挨拶をする、
かなり長いセリフのシーンであった。
僕は本格的にお芝居を学んだ人間ではないので偉そうなことはいえないのだが、
こういう演技はとっても難しいと思う。
あまりにも大げさに演じてしまうと安っぽくなってしまうし、
逆にサラリと演じすぎてしまうと薄っぺらなものになってしまうと思うからだ。

その難しい演技を、菅井さんはまさに「過不足なく、完璧に」演じ切ったと思う。
この“お葬式”での演技が高く評価され、
菅井さんは報知映画賞と日本アカデミー賞の最優秀助演女優賞を受賞した。
僕は当然だと思った。

菅井さんが最優秀助演女優賞を受賞した第8回の日本アカデミー賞において、
最優秀助演男優賞を受賞したのが高品格さんである。
賞は映画“麻雀放浪記”における「出目徳」の演技に対して贈られた。
この“麻雀放浪記”からはもう
1人、
「ドサ健」を演じた鹿賀丈史さんもノミネートされていたが、
やはり存在感では高品格さんに軍配が上がったと思う。
“お葬式”で宮本信子さんと山崎努さんが演じたタレント夫婦のマネージャー役だった
財津一郎さんも素晴らしかったが、
高品格さんには一歩及ばなかったというのが僕の感想である。

なので、この年の日本アカデミー賞における
菅井きんさん・高品格さんという大ベテランお
2人の最優秀助演賞の受賞は
とても納得できるもので、いまもこのときのことをよく憶えている。

“麻雀放浪記”で、
もう
1人忘れてはいけないのが「女衒の達」を演じた加藤健一さんである。
高品さんが演じた「出目徳」も、鹿賀さんが演じた「ドサ健」も
それぞれ素晴らしかったが、
僕のなかでは加藤さんが演じた「女衒の達」がいちばん鮮烈だった。
以来、ずっと気になる役者さんだったのだが、
加藤さんの舞台を観に行ったことは一度もなかった。

しかし、長生きしていればチャンスはめぐってくるもので先週の土曜日、
ついに加藤健一さんの舞台を初体験することができた。
「ル テアトル銀座」で上演された“ラヴ・レターズ”を観てきたのである。

ご存知の方も多いと思うが“ラヴ・レターズ”は
A.R.ガーニーによる同名の原作本をもとに、
女優と男優が椅子とテーブルだけというシンプルな舞台の上で、
アンディとメリッサという幼なじみが生涯にわたってやりとりした手紙を
時系列で交互に
読んでいくリーディングドラマである。
1988年の初演以降、ロンドン、パリ、オーストラリア、デンマーク、オランダ、
アルゼンチン、ドイツ、そして日本と世界各地で上演されている作品だ。

日本では青井陽治氏による訳・演出で1990年の初演以来、
今日まで実に
360回を超える公演が行われている。

僕は過去にこの作品を2度観たことがある。
石野真子と黒田アーサー、そして本上まなみと山本太郎の公演である。
以前にもチラリと書いたが石野真子のときは間違って行ってしまった。
本当は女優の森口瑶子さんの回を観に行くつもりだったのを
間違えてしまったのである。
おっちょこちょいの自分を罵りつつ、
なんの予備知識もなく初めて観た“ラヴ・レターズ”はとても素晴らしかった。
余計なものがないぶん、すごく心に響く舞台だったのだ。
僕は帰ってからもその余韻に浸りたくて、原作本を買った。

本上まなみと山本太郎の回を観たのは今年の7月。
目的はもちろん本上まなみであった。

本上まなみを初めて知ったのは、爽健美茶のCMだった。
このとき僕は恥ずかしながら本上まなみを、
真田広之主演のドラマ“高校教師”でもお馴染みの
桜井幸子と間違えていたことを正直に告白しなければならない。
爽健美茶の
CMについて話したいたとき
「桜井幸子って、ちょっと雰囲気変わったよね」といった僕に対し、
友人は「オマエはバカか。あれは桜井幸子じゃないの
!! 本上まなみっていうの」
と罵倒し諭してくれた。彼は本上まなみのファンだった。

それからしばらく後、
雑誌“ダ・ヴィンチ”に本上まなみのインタビューが載っていたのを読んだ。
一読しただけで、彼女がかなりしっかり読書をしていることが読み取れた。
以来、どことなく気になる存在となった。
彼女が離婚経験のある
18歳年上の編集者と結婚すると聞いたときは、
前出の友人と「チクショー
!! 世の中なにか間違ってないか」と嘆き合ったものだ。
本上まなみにとってみれば、まったくもって余計なお世話であろうが。

本上まなみと山本太郎による“ラヴ・レターズ”は、
前に観た石野真子と黒田アーサーの回とはまた趣きが異なっていた。
同じ作品でも演じる
2人によって、こうも違うのかと思わされた。
もちろん、どっちがいい悪いという話ではない。
どちらも良かった。
そして機会があったら、
また別のキャストでこの“ラヴ・レターズ”を観たいと思った。

先週の土曜日に観た“ラヴ・レターズ”で加藤健一さんの相手役を務めたのが、
久野綾希子さんである。
1972年に劇団四季に入団以来“ウェストサイド物語”“キャッツ”
“エビータ”“コーラスライン”など数多くの作品で主役を演じてきた
日本を代表するミュージカルスターである。

僕が久野さんを初めて知ったのは高校2年生のときだった。
カネボウ化粧品の「
EVITA」のCMで知ったのだ。
この久野さんの
CM起用は、かなりのニュースになったことを記憶している。
劇団四季の看板女優ながら
ほとんどテレビには露出していなかった久野さんが
CM出演をしたことと、
30歳代の女性ということを前面に押し出した商品(広告)コンセプトだったことが
当時としては画期的だったのだ。

このとき久野さんは32歳で、僕は16歳だった。
CMで観た久野さんの笑顔は、16歳の僕をも魅了した。
以来、僕は久野さんの隠れファンになった。

残念ながら久野さんの舞台は一度も観に行ったことはなかったのだが、
テレビでミュージカル“エビータ”の劇中歌の
『アルゼンチンよ、泣かないで』を唄っているのを観たことがある。
日本を代表するミュージカルスターの名に恥じない伸びやかで澄んだ歌声の、
聴く者を圧倒する荘厳な曲であった。
後にマドンナがこの曲をカバーしたが、
天下のマドンナとはいえ僕のなかでは月とスッポンであった。

そんな憧れ続けていた久野さんが、
これまたいつかは観たい観たいと思っていた加藤健一さんと一緒に公演するのである。
僕は期待に胸をふくらませながら、銀座へと向かった。

舞台は、その期待をまったく裏切らない素晴らしいものだった。
裏切らないどころか、期待していた以上の素晴らしさであった。

特に印象的だったのが、
加藤さん演じるアンディが長文の手紙を読んでいたときのこと。
長過ぎる手紙にイライラを募らせるかのように、
久野さんはウンザリした表情を浮かべながら、
足を組んだり、頬づえをついたりしていた。
こうした細かい演技は、
僕が観た過去
2回の“ラヴ・レターズ”にはなかったものだ。
単なる朗読劇では終わらない、
名女優・久野綾希子のきめ細かな演技・感情表現がそこにあった。
唄ったり、動き回ったりという場面はないながら
加藤健一
&久野綾希子による“ラヴ・レターズ”は、
1つのお芝居として見事なまでに完成されていた。

長年にわたる念願であった久野さんの舞台を観た、
加藤さんの舞台を観たという満足感以上の満足感を胸に、
僕はカーテンコール後、席を立った。

劇場を出ようとしたら、
とある男性がなにやら劇場のスタッフに文句をいっているのが目に入った。
どうしたんだろうと思って耳をそばだてたところ、
その男性が「あんなの、ただ台本を読んでいるだけじゃないか」といっている声が聞こえた。
その男性に対し、劇場のスタッフは困惑の表情を浮かべるばかりであった。

きっとこの男性も僕が初めて“ラヴ・レターズ”を観たとき同様、
どういう舞台なのかまったく知らずに来たのだろう。

それはそれでいい。

が、しかしである。

もちろん満足できるできないは個人差があるのでいちがいにはいえないのだが、
この文句をいっている男性の姿を横目にしながら、
ヘンないい方ではあるが
「僕
(の感性)が、この男(のようなもの)じゃなくて、よかった」とつくづく思った。


2008.12