来生たかお「夢の途中」


日曜日の朝、昨年末に近所で買ってきた鉢植えの梅に水をやったあと、
コタツに入りながら「ほぇ〜」と新聞のテレビ欄を見ていた。
僕はテレビはさほど観ないので、新聞のテレビ欄を熱心に見ることはほとんどない。
このときも見るとはなしに見ていたというのが実際のところである。

コタツのなかで手足をあたためながら、
しばらくテレビ欄の上で目を動かしていたら
「羽中田の夢」という文字が飛び込んできた。
日テレで
0:55から放映される“NNN ドキュメント’09”という番組であった。

羽中田ということは、あの羽中田くんだろうか? たぶん、あの羽中田くんだろう。
いや、羽中田といえば、あの羽中田くんに絶対間違いない。
そう思った僕は、大急ぎでぬくぬくとしたコタツから飛び出て、
すぐさま録画予約をした。


昨日、その録画した番組を観た。
やっぱり羽中田くんだった。

羽中田昌。高校時代、僕はテレビに映し出されるこの男の姿を、
羨望と憧憬、そして嫉妬の入り交じった複雑な心境で見ていた。

羽中田くんは、僕より1学年上の1964719日生まれ。
あの中田英寿の母校でもある山梨県立韮崎高校の出身である。
僕が羽中田くんをはじめて見たのは中学
3年生の冬。
全国高校サッカー選手権のテレビ中継にてであった。
この年の大会、羽中田くんは
1年生ながらレギュラーで活躍し、
ベスト
4まで勝ち進んだ。
そして翌年は準優勝。羽中田くんは優秀選手に選ばれた。


羽中田くんのプレーで僕が目を引いたのは、ドリブルであった。
そのドリブルは僕のようなヘナチョコ選手はもちろんのこと、
全国大会レベルの選手のなかでも群を抜いていた。
羽中田くんは、まさに高校サッカー界のスーパースターであり、
将来を嘱望されるスタープレーヤーであった。

たしか僕が高校2年生のときの大会だったと思うが、
その大会のチケットに羽中田くんの写真が使われていた。
いかに羽中田くんが当時の高校生のなかでも飛び抜けたサッカー選手であったか
!!
このことからも、おわかりいただけると思う。

しかし、羽中田くんのサッカー人生は決して順風満帆ではなかった。
高校選抜チームのヨーロッパ遠征を前に腎臓病を患ってしまったのだ。
羽中田くんにとって最後の高校サッカー選手権を前にしての発病だった。

7か月にわたる闘病生活の末、なんとか大会には間に合った。
しかし、ドクターが羽中田くんに課したのは、
プレーしていいのは
1試合1520分間というものであった。

試合の後半20分すぎ、
羽中田くんが交替選手としてグラウンドに出てくるたびに、
スタンドからは大歓声が巻き起こった。
そしてグラウンド上で羽中田くんは、
まさに格の違いを見せつけるかのような強烈な存在感を放ち続けた。
サッカーについてそれほど詳しくない友人たちも
「羽中田ってスゲエな」という言葉を何人もが口にしていた。

いまも当時も変わらないと思うが、
全国高校サッカー選手権は、まさに夢舞台である。
その夢舞台にすら立てなかった僕にとって、
その夢舞台の空気を支配している羽中田くんが
うらやましくてうらやましくて仕方がなかった。

まさかその半年後、
交通事故により羽中田くんが下半身不随になるなんて、
もちろん想像もつかなかった。

羽中田くんの事故のことを知ったのは1995年前後のことだった。
朝日新聞に羽中田くんの記事が出ていたのだ。
その記事には勤務していた山梨県庁を退職し、
サッカー指導者への道を模索すると書かれていた。
僕はその記事を読んで、羽中田くんの事故に驚かされるとともに、
なにか懐かしい友人の近況を聞いたような不思議な気分になった。
もちろん羽中田くんとは一面識もない。
僕は羽中田くんのことを知っているが、
羽中田くんは僕のことをまったく知らない。
でも、旧友に再会したような気持ちを抱いたのだ。

記事には車いすに乗った羽中田くんの写真も掲載されていた。
高校時代より髪の毛は短くなっていたが、
当時テレビで見つめていた羽中田くんの面影はたしかにあった。


その後、羽中田くんは大いなる夢の実現のために
スペイン・バルセロナへと渡った。
そして“みんなの声がきこえる---車いすのサッカー修行
という本と
“グラシアス---サッカーからの贈り物
という本が
四谷ラウンドという出版社から出版された。

あれはいつのころだか忘れてしまったが、
羽中田くんがテレビに出ているのを観たことがある。
爆風スランプのサンプラザ中野がレポーターとして羽中田くんを訪ねていた。
この番組には、羽中田くんを献身的に支えている奥さんも出ていた。
2人は高校時代のクラスメイトである。
天真爛漫な、とても素敵な奥さんであった。

日曜深夜に放送された“NNN ドキュメント’09”にも、
もちろん奥さんも出ていた。
過去に例のない車いすのサッカー指導者を目指す羽中田くんに対し、
奥さんは「あきらめなければ、目標は逃げない」と励ましたという。


羽中田くんは
2006年に、
Jリーグの監督になるためには必須である日本サッカー協会のS級ライセンスを取得。
もちろん障害者としては初のことである。
そして、昨シーズンから四国社会人リーグのカマターレ讃岐で指揮を執っている。
目指すはもちろん
Jリーグ入りである。

羽中田くんが高校サッカー選手権の夢舞台で活躍していたころ、
来生たかおの『夢の途中』という歌が流行っていたが、
羽中田くんもいままた、夢の途中にいる。

そして、いつの日か僕らに
その夢の結実を見せてくれることを信じている。


2009.01