加藤登紀子「知床旅情」


昨日の午後、友人デザイナーから電話があった。
なんでも、とある会社がコピーライターを探していて、
だれか知り合いでいいコピーライターはいないかといわれたというのだ。

仕事の内容は週に
1回取材に行き、
それを原稿にまとめてサイトにアップするものだという。
金額的にはさほど大きなものではないが、
毎月の売上げの見込みがつくレギュラー仕事というのはありがたい。
僕は「持つべきものは友よのお」と感謝しながら、
友人からのオファーを快諾した。

新しい仕事の見通しが立ったところで、夕方渋谷に出かけた。
エンケンこと遠藤賢司のライブを観に行くためである。
「またエンケン
!? あんたも好きねえ」と思った読者よ! 友よ!!
ハイ、大好きなんです。エンケン♪

ライブのなかでエンケンが、
これまた僕が大好きな元ジャックスの早川義夫氏と一緒に
新宿西口のしょんべん横町に飲みに行こうとしたら学生運動の騒動に巻き込まれ、
エンケンの足下にでっかい石が降ってきたというハナシをしていた。
このときエンケンたちと一緒に、
当時エンケンが思いを寄せていた女性もいたという。
この非常事態にエンケンは、その女の子の手を引き、
歌舞伎町のほうに走ったそうだ。
そして、どさくさにまぎれてキスをし、結ばれたという。

そんな過去の恋愛話をサラリと語れるエンケンは、
やはりカッコいいなと思った。

今朝も恒例の早朝ジョギングに出かけてきた。
キンモクセイの香りは昨日にも増してさらに匂いたっていて、
僕は足どりも軽やかに伝通院から我が母校である東大方面へと向かった。

すみません。
我が母校というのは大ウソです。

学生運動の象徴といえば、やはり安田講堂であろう。
昨日のエンケンの話を想い出しながら、僕は安田講堂へと歩を進めた。
ら、安田講堂に「2.19()」と書かれた落書きがあるのを発見した
しかも、この落書きは安田講堂の壁
2か所に
ちょうどシンメトリーな感じで書かれている。

僕は腰を抜かさんばかりにビックリした。
219日は僕の誕生日なのである。
偶然にしても面白い。
さらにいえば、
僕が生まれた
1966219日も土曜日なのである。

いったいいつ、だれがこんな落書きをしたのかはわからない。
ある意味、歴史的建造物である安田講堂に落書きをする是非については、
さまざまな意見があろう。
ただ僕個人としては、
この落書きがあるおかげで安田講堂が
身近なものに感じられるようになったのは事実である。

東大出身のミュージシャンといえば、
やはり加藤登紀子さんが真っ先に思い浮かぶ。
子どものころテレビで『知床旅情』を唄っている加藤登紀子さんを見て、
母が「この人のダンナさんて、刑務所に入っているだよ」といった。
刑務所に入る
=悪い人という概念しかなかった僕は、
加藤登紀子さんのダンナさんは極悪人なんだと思ったものだ。

加藤登紀子さんのご主人だった藤本敏夫さんは、
同志社大学在学中に反帝全学連の委員長に就任し、
19725月、防衛庁襲撃事件などによって投獄中に
加藤登紀子さんと獄中結婚をした。

その後、1976年に大地を守る会の会長となり
有機農業の普及に携わりはじめた。
そして
1981年には、理想とする農業を追求し、
自ら実践するため「鴨川自然王国」なる自然生態農場を設立した。

1992年、環境政党「希望」を旗揚げし、参院選に出馬するも落選。
2002年、膵臓ガンのために亡くなられた。

以前、勤めていた会社のデザイナーに安田講堂について聞かれたことがある。
よく、昔の映像で出てくる東大の建物は何なんですかと聞かれたのだ。
驚くことに、このデザイナーは安田講堂の名前を知らなかったのだ。
さらには、あの建物ってまだあるんですか、とも聞かれた。

このデザイナーは僕より
5歳ぐらい下なのだが、
年齢的に考えてせめて安田講堂の名前ぐらいは
一般常識として知っておくべきなのではないかと思った。
世の中に対して無知な人間が、
いい広告などつくれるワケがないと僕は思う。

1969118日から19日にかけて、
安田講堂でいったいなにが起こったのかを知っている
若いクリエイターたちは何人いるのだろうか
?

そして1969年当時、
学生運動というムーブメントの輪のなかにいた多くの人たちは、
いま何を思っているのだろうか
?
以前にも書いたが、僕は全共闘と呼ばれる人たちが大嫌いである。
いったいあなたたちはあの当時なにをしようとし、
そしていまなにを思うのか、それを僕は知りたい。


2007.10