カジャグーグー「君はTOO SHY」


昨日、皮膚科に行ってきた。
先生は女優の室井滋によく似た女医さんだった。
診察室で症状を説明し、
それに対して「それはこれこれこうで」と説明を受けている間、
僕はその女医さんの顔を見ることができなかった。

なぜか?
かつてカジャグーグーなるバンドの曲に『君はTOO SHY』なる曲があったが、
僕がとってもシャイで女性の目を見て話すことができないから、
という理由では全然ない。

では、なぜ? 何ゆえに?

鼻毛が出ていたのである。

出ていたといっても、チョロっと出ていたというレベルのものではない。
1本、くっきりと長さ15ミリぐらいにわたって出ていたのである。
僕は見てはいけないものを見てしまったような気になってしまい、
その女医さんの顔を見ることができなくなってしまったのだ。

とはいえ、話をしてくれているのにソッポを向いているワケにもいかない。
それは失礼すぎる。
やむを得ず僕はなるべく鼻が見えないよう、
診察中ずっと女医さんの眉の上からオデコにかけてのあたりに目を向けるようにしていた。


診察自体はものの数分で終わったのだが、
診察室を出たあと僕はぐったりとなった。

以前、みうらじゃんや安斎肇とも親交が深い、
編集者の渡辺祐が金曜日の午後に
J-WAVEでやっていた番組で、
「鼻毛出ていますよ」といえるか否かというテーマをとり上げていたことがあったが、
僕はまずいえない。
100パーセント、無理である。

会計を済ませ病院を出たあと、
僕はそういや昔もこんなことがあったなということを想い出していた。

昔むかし、あるところに仲良しの女友だちがいた。
僕より何歳か年上だったのだが妙にウマが合う人で、
僕らはよく
2人で飲みに行ったり、遊びに行ったりしていた。

夏のある日、
行きそうでなかなか行かない東京の観光地めぐりをしようということになり、
浅草の雷門前で待ち合わせをした。
そして、まずは浜離宮に行ってみようということになり、
僕らは水上バスに乗り込んだ。

朝の10時ぐらいだった。
隅田川を渡る心地よい風を感じながら、
隣に座った友だちの顔を見たら、見えてしまったのである。

賢明な読者諸君は、もはや僕が何をいわんとしているのかおわかりであろう。

その日は、東京タワーはもちろん深川から四谷、新宿と東京中をあちこち歩き回り、
夜一緒にゴハンを食べて別れたのだが、
実に実に長く、そして妙な汗をかいた
1日であった。

そんなことを想い出しながら帰宅し、夕刊を開いたところ
F1ドライバーの中嶋一貴くんの記事が載っていた。
ご存知のとおり、今日から
F1の日本GPである。
一貴くんにとって初の母国グランプリを前に、
父であり、また日本人初のフルタイム
F1ドライバーである中嶋悟さんが
コメントを寄せていた。

日本のモータースポーツの歴史をふり返るとき、
1987年という年は絶対に外すことができない。
なぜならこの年から中嶋悟さんが
F1にフル参戦し、
フジテレビが
F1全戦を中継し、鈴鹿サーキットで日本GPが行われたことが、
今日の日本のモータースポーツをとり巻く環境に
多大な影響を与えたことは間違いないからだ。

もちろん、それ以前にもF1はあったし、
日本国内でもさまざまなレースが行われていた。
しかし、モータースポーツに対する社会的な理解や認知度はまだまだ低かった。

それを示すいちばんの例が、
1986年にネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセルを擁する
イギリスのウィリアムズ・チームがホンダエンジンで
シリーズチャンピオンを獲得したときのことだと思う。

長い歴史と伝統を誇るモータースポーツの最高峰F1
日本製のエンジンがチャンピオンになる、
これは当時にすればまさに国民栄誉賞クラスの快挙だったはずだ。

しかし、そのニュースが大きくとり上げられることはなかった。

ある外国人のジャーナリストが当時、
なぜ
F1でホンダエンジンがチャンピオンを取ったというのに
日本人は大騒ぎしないんだ、と不思議がったという話を聞いたことがある。

このころの日本は、ことモータースポーツに関しては
その程度のものでしかなかったのである。

中嶋悟さんがF1デビューを果たした1987年のベストリザルトは
イギリス
GPにおける4位である。
このときは
1位から4位までをホンダエンジンが独占するという、
ホンダを応援する者にとってはこれ以上望むべくもない好成績であったのだが、
4位の中嶋さんはトップから2周遅れの4位であった。

そして、その年の日本GPでの中嶋さんは6位入賞であった。
イギリス
GPで4位に比べると、
母国
GP6位という成績はちょっと色あせて見えそうだが、そうではない。
中嶋さんはトップと同一周回を走っての
6位だったからである。

中嶋さんがF1に行く前、日本でレースをしていた当時、
よく鈴鹿の
1コーナーのアウト側から先行車をパスするシーンを魅せてくれた。
コーナーのイン側から抜いて行くのがセオリーであるモータースポーツで、
この中嶋さんのアウト側から抜くという走法には見るたびごとに
血沸き、肉踊らされたものである。

1987年の日本GPでも中嶋さんは、それをして魅せてくれた。
ブラバムのリカルド・パトレーゼを
1コーナーのアウト側からズバッと抜いて行ったシーンは、
いまもしっかりと脳裏に焼きついている。

あれから21年である。

昨日の夕刊には、
テレビ解説のため決勝直前に息子の一貴くんと話す機会があるかも知れないということについて
「照れちゃうよ。どんどん若手が後ろに控えている今は自分の時代より厳しい。
『気をつけて』としか言えないね」という中嶋さんのコメントが掲載されていた。

僕はこの「気をつけて」という言葉を目にしたとき、
ああ
21年前にもこんなことがあったなということを想い出した。

1987年の日本GPの直前、フジテレビでF1の特番が放映された。
そのとき、中嶋さんのオフタイムの映像も紹介され、
あけみ夫人とともに
3歳だった一貴くんも一緒に映っていた。

そして「いつもパパをどうやって応援してるの?」という中嶋さんに対し、
3歳の一貴くんは手を叩きながら「Be careful」といって無邪気な笑顔を見せた。

このシーンが妙に印象に残っていて昨日、
それを想い出してしまったのだ。

あくまでテレビを通してであるが、
3歳のころの一貴くんを知っているだけに、
僕はどうしても一貴くんに対して甥っ子を見るような目線になってしまう。
一貴くんにしてみれば、あんた誰
?ってなもんであろうが()

かつての中嶋悟さんがそうだったように、
一貴くんは今回の日本
GPでただ1人の日本人ドライバーである。
周囲はやれ入賞だ、表彰台だと大きな期待を寄せるだろうが、
なにはともあれ気をつけて、無事に完走してほしい。

僕はサッカーのW杯でも日本代表よりイタリア代表を応援するような人間なので、
スポーツにおける愛国心は希薄なほうかも知れない。

が、F1は別である。

いつの日か表彰台の真ん中に立つ一貴くんを見ながら、
君が代を聞きたいものだ。

日本GP決勝の翌日、
13日の月曜日に一貴くんは後楽園でトークショーを行う。
もちろん僕も叔父として
(?)駆けつけるつもりだ。

すっかりたくましく成長した甥っ子から、
いい報告が聞けることを心から期待したい。

2008.10