井沢八郎「あゝ上野駅


大阪名物、くいだおれ人形でおなじみの「くいだおれ」が
今年
7月で閉店するというニュースが先日報道された。
僕はこのくいだおれには、
残念なことに一度も足を運んだことがない。
閉店すると聞けば行きたくなるのが人情。
以前、大阪に行った際に行っておけば良かったと、
いまさらながら後悔している次第である。

なんて書けば、昨日のビリケンさんに引き続き、
またしても大阪ネタを書きなぐろうとしていると思われそうだが、
今日僕が書きたいのは大阪のことではなく、上野のことである。

以前この日記でも何度か紹介した、
僕のなかでは「東京一おいしいビールが飲める店」であるところの、
上野の大衆レストラン・聚楽台が
来る
421日をもって50年の歴史に幕を下ろしてしまうのである。

惜しい。実に惜しすぎる。本当に残念きわまりない。

しかし、逆にこの4月まで営業を続けられたことが奇跡的といえなくもない。
聚楽台が入っているビルが老朽化のため建て替えられると聞いたのは、
たしか
3年ぐらい前のことである。
僕にこのことを教えてくれたのは
、とあるフードコーディネーターであった。
飲食業界に身を置く人からの情報だから、
それは信憑性の高い情報に思えた。
事実その後、聚楽台のあるビルに入っていたお店は次々と閉店し、
聚楽台の閉店もそう遠いことではないと思われた。
1年前には、そろそろ聚楽台も閉店するというハナシが
まことしやかに囁かれたものである。

が、聚楽台はそんな噂話を吹き飛ばすかのように2007年も営業を続け、
いつも大勢のお客さんで賑わっていた。
先月のとある土曜日。僕が聚楽台に行ったときもたくさんのお客さんがいて、
この店特有の、なんというか「いなたい」雰囲気も健在であった。
いつもと何ら変わらない聚楽台に安心しつつ頼んだビールを待っている間、
キョロキョロと店内を見渡したところ閉店を告げる張り紙がしてあった。

そうか、もうこの空間でこのビールを飲むことはできなくなってしまうんだ。

運ばれてきたビールに口をつけながら、僕はしみじみと思った。

聚楽台は和食・洋食・中華となんでも揃っていて、
ビールもあればパフェもある、
まさに家族みんなで楽しめるレストランであった。
しかも上野駅の真ん前という立地である。
やれ六本木ヒルズだ、ミッドタウンだ、丸ビルだ、
なんだかんだと騒いでいるいまのファッショナブルでナウなヤングたちは
上野なんて見向きもしないかも知れないが、
僕が子どもの頃は上野はまさに「都会」であった。
そして、上野でゴハンを食べることは、
まさに年に何度もない一大イベントだったのである。

僕は生まれてから22歳までを「昭和」の時代とともに生きてきた。
この上野の聚楽台へはもちろん平成になってからもずっと足を運んでいたのだが、
僕にとってこのお店はまさに「昭和のシンボル」という気がしてならない。
それはだだっ広く小汚いお店のなかもそう思わせる要因のひとつなのだが、
客層もどことなく昭和の香りのする人が多かった。
それはなにも大人たちばかりではなく、
この店に来ている子どもたちまでが、
平成の時代であってもどことなく昭和チックな香りのする子どもたちのように思えたのである。

無理くりな理屈ではあるが、いってみれば聚楽台は2008年の今日にあっても、
お店の
BGMで井沢八郎の『あゝ上野駅』がかかっていても
まったく違和感のない雰囲気を保っていたといっても過言ではない。

井沢八郎といっても知らない人も多いかもしれないが、
女優・工藤夕貴のお父っつぁんである。
1964年に発表された『あゝ上野駅』は、
東北地方からの集団就職者の愛唱歌として大ヒットし、
2003年には上野駅前にこの歌の歌碑が建立されている。

ちなみに僕の父もこの曲をカラオケでよく唄うというハナシを
本人から聞いたことがある。
その理由というのが、いかにも僕の父親らしいといえば、らしい。
カラオケの席でナニを唄おうか探すのが面倒くさいので、
カラオケ曲のリスト本に真っ先に載っている
あゝ上野駅』を唄うことにしているというものであった。
合理的といえば合理的。
ナニも考えとらん、といえば考えとらんオヤジである。

井沢八郎は数々のスキャンダルの影響もあり、
長いこと娘の工藤夕貴と不仲になっていたという。
しかし、晩年に和解。
そして、井沢八郎が亡くなった昨年の
117日は
奇しくも工藤夕貴の誕生日であったそうである。

僕はその話を聞いて、
つくづく親子の絆や因縁というものを痛感せずにはいられなかった。

集団就職というのは僕らの世代にもあったのかどうかは知らないが、
僕は一度上野で怪しげな男からスカウトされたことがある。

あれは2003年の夏のこと。
上野公園内にあった彰義隊の資料室が閉館されることを知った僕は、
最後の見学のために上野公園へと向かっていた。
その日は朝から江東区でサッカーの試合があったため、
僕はジャージ姿にでっかいスポーツバッグといういでたちであった。
公園へと向かおうと階段を勢いよく上り、
上りきったそのとき、その怪しげな男から
「兄ちゃん仕事はあるのか
? 紹介するぞ」と声をかけられた。
きっと家出人と間違えられたのだろう。

白昼堂々そんな声をかけられるとは。
改めて上野という街の奥深さを痛感せずにはいられなかった。

僕が知る限りにおいて、
上野の聚楽台のようなお店は、もう東京にはない。
ターミナル駅の真ん前で、大人から子どもまで楽しめるメニューが揃っていて、
真っ昼間から大人数で宴会していてもナンの違和感がないお店は、
東京広しといえどこの聚楽台だけだったと思うのだ。

そんな文化的遺産ともいえる、聚楽台もあと1週間で閉店である。
つくづく残念だなと思うのは、僕があまりにも「聚楽台、聚楽台」と騒ぐので、
「一度、行ってみたい」とこのお店に興味をもってくれた友人が何人かいるのだが、
そうした人たちを連れて行けなかったことである。

そんな友人たちの分まで、
僕が体験したここでの想い出の数々を振り返りながら、
閉店までに必ずやもう一度、足を運びたいと思う。

最後にいま想い出した聚楽台での想い出話をひとつ。
ある夏の日、僕の目の前にお母さんとお嬢ちゃん、
そしてそのお祖母ちゃんであろう
3人組がいた。
お母さんはかき氷を頼もうとしていた。
見事な関西弁であった。
そのお母さんはメニューの写真を見ながら、店員さんにこうのたもうたのだ。

「このかき氷についている白玉いらんから、そのかわり小豆多めにしてくれへん」

僕はその余りにもな申し出を小耳にはさみながら、
やはり関西人というのはスゴイなぁと妙に感心したことを憶えている。


2008.04