伊藤銀次「ビューティフル・ナイト」


伊藤銀次が佐野(元春)くんのバンド、ザ・ハートランドの活動と並行し、
アルバム“ヘイビーブルー”を発表したのが
1982425日である。

で、その年の
925日には“シュガーボーイ・ブルース”を発表、
そして翌年の
4月には“スターダスト・シンフォニー65-83を発表と、
実に
1年間で3枚のアルバムをリリースするという驚異的な活動を行った。

そのあふれんばかりの創造力は、
伊藤銀次としてのファーストアルバム
“デッドリー・ドライブ”
(1977525日リリース)以来、
ずっとあたため続けていたものを一気に吐き出しているかのようであった。

銀次の声は細くやさしい。
決してシャウトで勝負する類のシンガーではない。
加えて、銀次がつくるメロディラインは実に美しい。
そんなことから、僕のなかでは
シンガーとしてのジョージ・ハリソンと伊藤銀次はカブルのである。

高校3年生にならんとしている春、
佐野くんが
DJを務めていたサウンドストリートで日本のアーティスト特集が組まれ、
その番組内で銀次の『泣きやまないでラヴ・アゲイン』が
OAされた。
すごくいい曲だと思った。
そして、この曲がいかに素晴らしいかをガールフレンドに話した。
彼女もぜひ、聴きたいといってくれた。

僕は発売日がくるのを首を長くして待ち、
この曲が収録されている“スターダスト・シンフォニー65-83
を発売当日に買い、
彼女に報告した。
そしてすぐさまカセットテープに録音し、彼女にあげた。

6月に銀次のライブがあると教えてくれたのは、
同じ学校の元春ファンだった。
彼はチケットを買ったのだが行けなくなってしまったので、
チケットを買わないかといってきた。
僕は二つ返事で
OKし、
一緒に行かないかとガールフレンドを誘った。
彼女はとても喜んでくれた。

僕と彼女が付き合いだしたのは、
その前の年の
11月である。
中学時代の同級生の女の子が、
僕に会いたいといっている子がいると連絡してきて付き合うことになったのだ。

だが、お互い部活で忙しかったこともあり、
そう頻繁には会えなかった。
だから会話はもっぱら電話となった。
いまのように携帯電話や親子電話がある時代ではない。
電話ひとつするのも、とても勇気がいった時代なのだ。

そんな勇気をふりしぼりながら、僕らはよく電話で話した。
どのぐらいよく話したかというと、
平均で
4時間、最高で8時間以上は話した。

RCサクセションの初期の歌に『2時間35分』というのがある。
清志郎がガールフレンドとの長電話記録について歌った曲だが、
こと長電話に関しては清志郎は僕の比ではなかった。

途中、会話が途切れてしまうこともあった。
でも、そのまま「じゃあ、おやすみ」といって電話を切るのが心惜しくて、
無理やり話題を見つけてはまた長々と話した。
当然のごとく、僕らはそれぞれの親から怒られた。
でも、電話をかけることはやめなかった。


銀次のライブに一緒に行ってしばらくたった頃、
急に彼女から電話がこなくなった。
僕らのなかには交互に電話をするという不文律があり、
次は彼女が電話をくれる番だったのだ。

今日はかかってくるかな、
今日こそはかかってくるかなと思いつつ、
1ヵ月以上が過ぎた。

そんな思いをするなら、
自分から電話をするなり、なんとでもしようがあるだろうと
41歳の僕は思うのだが、当時の僕はそんな風には考えられなかった。
どう考えたかというと、フラれたのだと思ったのだ。

そうこうしているうちに夏休みになった。
相変わらず彼女からの連絡はなかった。
729日の金曜日、僕は悪友たちと飲み会を開いていた。
ちょうど“ふぞろいの林檎たち”の最終回だった。

夏休みである。
高校生である。
当然、ガールフレンドの話となる。

僕は悪友たちにフラれてしまったとはいえず、
適当に話をごまかし続けた。

そして明け方、帰宅した。
僕は銀次の“スターダスト・シンフォニー65-83
に針を下ろした。
そしてこのアルバムに収められている
『ビューティフル・ナイト』を聴きながら、惨めな気持ちで泣いた。

銀次の『ビューティフル・ナイト』は
明らかに佐野くんの『ロックンロール・ナイト』にインスパイアされたと思われる
懐古的な歌詞のスケールの大きな曲だ。
そのメロディラインはいつものように美しく、
銀次の声はやさしさにあふれていた。

真夏の明け方、ひとり聴いた『ビューティフル・ナイト』は、
傷心の僕の心の奥に染みわたるようだった。

銀次がつくった曲といえば、
もっとも有名なのは“笑っていいとも”のテーマソングであろう。
ほかにもアレンジャーとして、
ジュリーの『ストリッパー』や『おまえにチェックイン』などを手がけている。
プロデューサーとして、先輩ミュージシャンとして
佐野くんに与えた影響は数知れない。
ということは、日本の音楽業界に与えた影響も多大ということだ。

佐野くんは銀次を評し
「日本の音楽シーンを振り返ると、いつもそこに銀次がいる」と語っていたが、
その言葉はあながち大げさではない。

銀次といえば、“ふぞろいの林檎たち”のあと番組、
原田芳雄さんも出演した“夏に恋する女たち”の音楽も担当している。
1983年の夏、僕のまわりには伊藤銀次の音楽がいっぱいあった。

結局、僕のガールフレンドとは、
その後、再び付き合い出した。
夏休み中に彼女から手紙がきたのである。
その手紙には「急に電話をくれなくなって・・・」と書いてあった。

彼女も僕と同様、
電話がこない、おかしいなと思ってずっと待っていたのである。
なんてこったと思った。
僕らは、本当に幼い恋人たちであった。
銀次の『ビューティフル・ナイト』を聴きながら涙にくれた、
あの朝はなんだったんだろうと思った。

憶測だけでものごとを判断してはいけない。
なにか心にひっかかることがあったら、
考えてばかりいないですぐに行動
する。
僕の擬似失恋話は、このことを教えてくれる。


2007.03