伊武雅刀「子供達を責めないで」


今朝の朝日新聞文化欄に「軽すぎやしませんかねぇ」という見出しの
タイムリーな記事が載っていた。
落語家の相次ぐ襲名についての、ちょっと皮肉めいた記事である。

2005年に林家こぶ平が正蔵を、2006年に柳家三語楼が小さんを襲名。
そして今年は林家木久蔵が木久扇と改名し、
木久蔵の名は息子のきくおが引き継いだと思ったら、
先月ナント林家いっ平が三平を
2009年に襲名するというニュースが流れた。

はっきりいって、木久蔵親子なんてのは、どうでもいい。
しかし、正蔵、小さん、三平はどれもビッグネームである。
それを簡単に引き継がせていいものかというハナシを、
実はつい先週していたところなのである。

僕は子どもの頃からお笑いが大好きで、
よく“大正テレビ寄席”をはじめとするお笑い番組を観ていた。
僕が子どもの頃、特に好きだったのは三平師匠とケーシー高峰である。
三平師匠は
1980年に惜しくも亡くなられてしまったがケーシー高峰は健在で、
たまに“笑点”を観ていると出てきてくれたりする。
実にうれしい限りである。グラッチェ、グラッチェってなもんだ。

三平師匠は数々の爆笑エピソードを持っているが、
なかでも僕が好きなのは放送作家の高田文夫センセーが
少年時代にトイレで三平師匠にバッタリ会ったときのハナシである。
用を足しながら「あっ、三平だ」と気づいた高田少年。
その少年の視線に気づいた三平師匠は、高田少年に対し
「どーも、三船敏郎です」とギャグをかましたという。

三平師匠がいかに人を笑わすことに対し、
日頃から神経を張り巡らせていたかということを、
僕はこのエピソードから感じる。

また、これも高田センセーから聞いたハナシなのだが、
以前、立川談志師匠が選挙に出馬したときのこと。
三平師匠も応援演説に駆けつけた。
「どーも、三平です。林家三平がやってまいりました。
お騒がせしてどーもスミマセン。三平です。林家三平です」と自分の名前を連呼し、
ついに
1回も三平師匠の口から談志師匠の名が出ることはなかった。
人前に立つと、ついつい芸人の血が騒いでしまって、
笑いを取りたくなったに違いない。
後日、開票したみたところ、三平師匠が応援に駆けつけた地域では、
林家三平と書いた投票用紙が
20数枚あったというオチまである。

いまなお語り継がれる数々のエピソードを持ち
「昭和の爆笑王」と謳われた三平師匠の名を、
いくら息子だからといって、
いっ平に継がせていいものだろうか
?
少なくとも三平師匠の現役時代を知っている世代からすると、
僕は多くの人々が違和感を覚えるという。

こぶ平の正蔵襲名も無理くりな気がして仕方なかった。
7代目正蔵は、三平師匠の父、つまりこぶ平の祖父にあたる。
8代目正蔵は、後の彦六師匠。
ともに名人と謳われた噺家である。
はっきりいって、こぶ平ごときが継ぐのは時期尚早のような気がする。
事実、僕のまわりにはけっこう落語にうるさい人が多いのだが、
誰一人としてこぶ平を正蔵とは呼ばない。
いまだに、こぶ平はこぶ平のままである。

芸人というのは、お客に認められてこそはじめて成り立つ商売である。
こぶ平にしろ、いっ平にしろ、
大切なのはいかに精進して偉大な名前に恥じない芸人になるかである。
僕は別に期待はしていないが。

なぜなら、僕は三平師匠亡き後の海老名家というのが、
どうもいけすかない。
特にこぶ平たちのおっ母さん。
一時は子育て論で講演等も行っていたが
(いまも行っているかは不明)
はっきりいってこの人に子育てを語る資格はないと思う。
何故か
!? こぶ平のものの食べ方が汚いからである。

たしかいまから10年以上前になると思うが、
土曜日の夕方、こぶ平と松本伊代のダンナであるヒロミが出ている番組が放映されていた。
たまたま観るともなしに見ていたところ、
ヒロミと一緒にこぶ平が野外で何かを食べていた。
その食べ方が、あまりに汚かったのだ。
食べ方が汚いというのは、僕が思うに
100%親のしつけのせいだと思う。
そんなしつけしかしていない人間が、
なんで偉そうに子育てを語れるのだと僕はその番組を見ながら思ったものだ。

察するに、今回の襲名に関しても、
このおっ母さんの意向がかなり反映されているのではないだろうか
?
となると今回の襲名に対して、
このおっ母さんの子どもであるこぶ平やいっ平ばかりを責めるのもかわいそうな気もする。


三平師匠が亡くなった
1980年に発表されたYMOの『増殖』には、
林家万平という落語家が中国で落語をするという
スネークマンショーのギャグが収められている。
この林家万平、誰がどう聞いても三平師匠のパロディである。
モノマネをしたのは、畠山桃内こと伊武雅刀氏。
伊武さんといえば、
1983年の秋に『子供達を責めないで』という曲をリリースし、話題を集めた。


「私は子供が嫌いです。子供は幼稚で、礼儀知らずで、気分屋で、
 前向きな姿勢と無いものねだり、心変わりと出来心で生きている」
という静かな朗読口調で始まるのだが、
だんだん伊武さんが興奮した口調となり
「そんな子供のために私達おとなは何もする必要はありませんよ。
 第一私達おとながそうやったところで、ひとりでもお礼を言う子供がいますか。
 これだけ子供がいながらひとりとして感謝する子供なんていないでしょう。
 だったらいいじゃないですか。それならそれでけっこうだ。ありがとう、ネ。
 私達おとなだけでせつな的に生きましょう、ネ。子供はきらいだ。
 子供は大嫌いだ。離せ、俺はおとなだぞ。誰がなんといおうと私は子供が嫌いだ。
 私は本当に子供が嫌いだ」という絶叫で終わるイヤハヤナントモな曲である。

この曲が発表されてから四半世紀経とうとしているが、
そのインパクトはいまだに僕のなかで色あせていない。

こぶ平やいっ平が、25年後にこんな風に語られるときが果たしてくるのか?
まあ、お手並み拝見である。

ちなみにこれまた昭和の名人の一人である三遊亭圓生師匠が亡くなられたとき、
パンダのランランも亡くなった。
新聞ではランラン死亡が大きく扱われ、
圓生師匠死去の扱いは、小さいものだった。
ランラン死亡の記事は大きく「ランラン死亡」だったのに対して、
圓生師匠の記事は「圓生も死ぬ」という見出しだったというハナシが、
いまも伝説として語り継がれている。


2007.11