堀内孝雄「君のひとみは10000ボルト」


今朝も週末恒例の早朝ジョギングに出かけてきた。
昨日は武道館方面に行ったので、
今日は神田明神様方面へ行くことにした。

伝通院をお詣りしたあと、
立花隆さんの事務所「通称・猫ビル」の前を通り白山通りに抜け、
そこから再び春日通りに出、
本郷三丁目の交差点を右折して神田明神様を目指した。

異変は、このあたりで起きた。
水面に水のしずくが一滴ポチャーンと落ちるような感じで、
お腹に痛みを覚えたのだ。
まあ、なんとか大丈夫だろうと思い、
歩を進め神田明神様の鳥居の前にたどり着いたのだが、
このとき僕のお腹のなかは一滴ポチャーンではなく、
ポチャッポチャッという連続的な痛みを覚えるようになっていた。

さすがに、これはヤバそうだ。
ということで、僕はトイレを探した。
が、ない。
考えてみれば、神田明神様には何度も訪れているが、
トイレをお借りしたことはないのである。
当然、トイレがどこにあるかなんて知る由もなかった。

焦ってグルリと神田明神様を一周したのだが、
結局見つからなかった。
銭形平次の碑が心地よい秋の日曜日の朝日を浴びて輝いていたが、
僕はそれどころではなかった。
お腹のなかは、もはやポチャッポチャッから
タンタンタンタンツッタカタンというビートを刻みはじめた。

もはや一刻の猶予もならん。
読者よ
! 友よ!! 日曜日早朝の神田明神様の境内で、
青ざめた顔でトイレを探している
40男の姿を想像してくれたまえ。
けっこう情けないぞ
()

神田明神様の下には小さな公園があって、
そこに公衆トイレがあるのは知っていたが、
そこは和式のうえ、いかにも汚いトイレだったので絶対に行きたくなかった。
しかも、ティッシュも持っていない。
では近くのコンビニで借りるか
? それもなんとなく抵抗がある。

なんて逡巡している場合ではないのに、
僕はわがままなことばかりを考えていた。

窮すれば通ず。
僕はあるひとつのアイディアを思いついた。
以前、勤めていた会社は神田明神様の真ん前。
さすがにセキュリティがかかっているので会社のあるフロアには行けないが、
ビルの
1Fさえ開いていればビルのなかに入れる。
1Fにはトイレがあるので、それを拝借しようと考えたのである。

さっそく僕はビルの1Fの扉に手をかけた。
もはやお腹のなかは限界ギリギリである。
ここで扉の鍵がしまっていたら、まさに万事休すである。
僕は祈るような気持ちで左手に力を入れ、扉を押した。

天は我を見放してなかった。
ドアは静かに開いた。
僕は急いでトイレに向かった。

用を済ませた後、そそくさとビルの外へと出た。
この場合、やはり不法侵入になるのだろうか
?などと考えながら、
僕は足どりも軽く聖橋方面へと向かった。

マラソン競技の場合、
レース中に急激に体調が変化することは多々ある。
特に女性選手の場合は、
急に生理になったりお腹をこわしたりすることがある。

ある女性選手はオーストラリアでのレース中にお腹が痛くなり、
コースを外れ公衆トイレで用を済ませた。
その後レースに復帰し、なんと優勝してしまった。

しかし、世の中はこんなハッピーエンドばかりではない。
別のある選手は、レース中にお腹をこわしたのだが、
それでも走るのをやめなかった。
その選手は、汚れたレースパンツのまま泣きながらゴールをした。
僕はこのときのことを鮮烈に憶えている。
勝負と人間として尊厳。
そんなことをあらためて想い出しながら、
僕は御茶ノ水の駅前を通り、主婦の友社の前を通り、
水道橋へと向かっていた。

このとき、何かが僕の鼻先をかすめた。
!! 僕は思わず足を止めた。
それはキンモクセイの香りだった。
今年はじめて嗅ぐ、キンモクセイの香りだった。
僕は思いっきり深呼吸して、
今年はじめてのキンモクセイの香りを体中いっぱいに吸い込んだ。

キンモクセイの香りを嗅ぐと、
ついつい想い出してしまうのが堀内孝雄の『君のひとみは
10000ボルト』である。
「鳶色の瞳に誘惑の翳り 金木犀の咲く道を」
(作詞・谷村新司)
という唄い出しではじまるこの歌は、
1978年秋の資生堂のキャンペーンソングであった。
「君のひとみは
10000ボルト」というキャッチコピーは、
日本広告界の大御所・土屋耕一さんの手によるものである。

この曲が流行ったころ、僕は中学
1年生。
まだコピーライターなどという職業がこの世にあることすら知らなかった。

2007年、あれから30回目の秋。
12歳の悪たれ小僧は41歳の悪たれオヤジになったが、
キンモクセイのかぐわしい香りは今年も変わらない。

キンモクセイの香りを堪能できる期間は、そう長くはない。
できるだけ楽しんで、
41歳本厄の年の、いい秋の想い出にしたいと思う。


帰り道、地下鉄後楽園駅前にある公園を通り抜けようとしたら、
またしてもキンモクセイの香りがした。
さらには、伝通院の交差点付近でも。
出かけるときには香っていなかったのに。

きっと僕が走ったり、トイレに行ったりしている間に香り出したのだ。
ということは僕は、
我が家近辺にある今年のキンモクセイの香りを真っ先に楽しめたことになる。

なんとも幸先のいい秋である。


2007.10