響「落ち葉のささやき」


7月最初の日曜日の昨夜、僕は代官山にいた。
代官山は、おしゃれなイメージの街である。
僕には似合わない。
絶対に似合わないと信じている。
そんな代官山のことを僕は畏敬の念を持って「でーかんやま」と呼んでいる。

そんな似合いもしない「でーかんやま」に、
いったいナニをしに行ってきたのかというと、
のっぴきならない用事があったからだ。
ターフィーくんに会いに行ったのではない。
ターフィーくんは「でーかんやま」にはいない。
ターフィーがらみの用事は、前日の土曜日に済ませてきた。

8時前に家を出、
先週の「
YOKOHAMA KEIBAまつり!!」で当たった緑色のウチワを持って新横浜のWINSに行き、
ターフィーくんが描かれたオリジナル賞品をありがたく頂戴してきたのだ。
賞品は「
CLUB KEIBA」というロゴの入った透明のビニールバッグと、
浴衣姿のターフィーくんが描かれた緑色のタオル、
そして内側にターフィーくんの顔がワンポイントで描かれているキャップだったのだが、
このビニールバッグが想像していた以上に大判で
持参して行ったショルダーバッグに入らなかった。
仕方ないのでビニールバッグをむき出しのまま手にし、
電車に乗って帰ってきたのだが、
あれはなかなか恥ずかしかった。

おっといけない。ついつい筆がすべってしまったぜ。
今日の話題はターフィーくんではないのだ。

「でーかんやま」のハナシである。

昨日は代官山駅前にある“晴れたら空に豆まいて”という
「卑猥な名前のライブハウス」
(by遠藤賢司)に行ってきたのである。
そう、またまたまたまたエンケンのライブを観に行ってきたのだ。

先月1日に下北沢で行われたライブでは、
遠藤ミチロウとのジョイントライブであったが、
昨日のライブはパンタとのジョイントだった。
まさに「日本の生けるロックンロール・レジェンド」の共演である。
これは見逃してはいけない。
絶対に見逃してはいけない。

ということで、久しぶりに似合いもしない「でーかんやま」まで
出かけてきたという次第である。

僕が中学生から高校生にかけて、
日本のロック界最大カリスマといえば、僕のなかではパンタだった。
僕がパンタを知ったときはすでに解散していたが、
パンタとトシ
(石塚俊明)による頭脳警察は、伝説中の伝説のバンドだった。

三億円事件のモンタージュ写真をジャケットに使用したファーストアルバムは発売中止になり、
セカンドアルバムも発売後わずか
1か月で販売中止。
成田闘争まっただ中の三里塚でライブを行ったり、
いまは有楽町マリオンとなった日劇のステージ上で自慰行為をしたりと、
その過激なエピソードの数々は
10代のタカハシ少年を夢中にさせた。

しかし、頭脳警察の名前は知っていても、
肝心のレコードが売っていないのである。
聴きたい、欲しい。
10代の少年の欲求におあずけを喰らわすのは酷というものである。

そんな僕に福音がもたらされたのは高校1年の夏を過ぎたころだった。
ナント、頭脳警察のセカンドアルバムが再発売されるというではないか。
このニュースを雑誌で読んだときは、
同じくパンタが大好きだった同級生のコクブンと一緒に拍手喝采をおくり、
万歳三唱をくり返したものだ。

一貫して骨太の反体制的な歌を唄ってきたパンタが、
この頭脳警察のセカンドアルバムの再発売と同じ
1981年に発表したのが
KISS
というアルバムである。
このアルバムは作詞をすべて作詞家に依頼し甘々なラブソングを集めた問題作で、
古くからのパンタファンのなかには
「パンタを殺してオレも死ぬ」などと物騒な発言をする人もいたという。

このアルバムについて当時のパンタは
「本来であれば
10代のころに唄っておくべき曲を、
当時は
(パンタのパブリックイメージから)唄うことができなかったので、
いま唄うことにした」というようなことを語っていた。

いってみれば、この“KISSというアルバムは
パンタが次に進むための通過儀礼だったのである。
僕はそう理解している。

KISS
のあとパンタは“唇にスパーク”という
KISS
の続編ともいえるアルバムを発表。
そして
1983年の“浚渫(SALVAGE)1984年の“16人格を経て、
1985年に“反逆の軌跡”をリリースした。
このアルバムのタイトルソングを聴き、僕は“KISS
を経過し
ぐるりとひと回りしてパンタの反骨心に満ちあふれた力強い歌が帰ってきたことを
心から喜んだものだ。
パンタの『反逆の軌跡』については過去にこの日記にも書いたことがあるが、
いまなお僕の人生における大切な応援歌のひとつである。

頭脳警察時代の歌は、
たとえば『銃をとれ』や『ふざけんじゃねえよ』といった激しい歌ももちろんいいのだが、
『さよなら世界夫人よ』や『それでも私は』といったアコースティックなナンバーも大好きで、
多感な少年時代の僕は何度もこれらの歌を聴きながら何度も涙を浮かべたものだ。

昨日のライブに行くにあたり、
僕は頭脳警察時代のある曲を想い浮かべていた。
ぜひ、演奏してほしいと思っていたのだ。
しかし、頭脳警察のナンバーのなかでもどちらかといえば通好みの部類に入る曲なので、
それは奇跡を待つに近い願望だと思いつつ僕は会場に入った。

ライブはまずパンタの演奏ではじまった。
昨日、パンタはギタリストの
菊池琢己氏とのアコースティックユニット「響」として登場した。
黒いヘアバンドに黒い
Tシャツ、そして黒い細身のパンツに黒のブーツという、
まさに僕らがよく知っている、昔から変わらないパンタそのもののいでたちであった。


パンタはライブ開始直後の
MCで「今日は新旧の曲を織り交ぜて」といった。
僕は「ひょっとしたら」という期待と
「でも、まさかね」というあきらめが入り混じった複雑な心境で、
パンタと
菊池による「響」の次なる演奏を待った。

3曲目。奇跡は起こった。
1974年に発売された頭脳警察のラストアムバル“悪たれ小僧”に収められている
『落ち葉のささやき』を演奏してくれたのである。
僕がぜひ演奏してほしいと思っていた曲がこれだ。
この曲は頭脳警察のライブ
CDでこそ聴いたことはあるものの、
生で聴くのははじめてであった。

「落葉のささやきがおしえてくれた 
 過ぎ去っていく風の足音が何故か寂しい
 恋も夢もやつれ疲れ果てて
 こんな平和は欲しくなかったのに」
(作詞・Pantax's World)

この最初のフレーズを聴いただけで、
僕は涙があふれてあふれて仕方がなかった。
大げさなことをいえば、僕の人生がフラッシュバックしてきたのだ。
かつて深い絶望にあったとき僕は何度もこの曲を聴き、
絶望のどん底まで堕ち、そして再生した。
恥ずかしながら僕の人生は絶望と再生の繰り返しだったといっても過言ではない。
そのたびに、この曲を聴いたり想い出したりしてきたのだ。

僕はあふれ出てくる涙を最初は、ぬぐった。
でも途中からやめた。
パンタに僕が泣いていることを知ってほしかったのだ。
それは僕からのパンタに対する感謝の気持ちだった。

パンタが僕の涙に気づいたかどうかはわからない。
でも、いいのである。
パンタは『落ち葉のささやき』を演奏してくれ、僕はそれに涙した。
その事実だけで、十分これからも生きていける。

パンタは「響」名義で昨年“オリーブの樹の下で”というアルバムを発表した。
このアルバムに収録されているほとんどの曲を作詞したのが日本赤軍の最高指導者で、
現在懲役
20年を求刑されている重信房子さんである。
昨日のライブでは、このアルバムに収録されている曲も数曲演奏された。
パンタと重信房子さんという組み合わせは、
パンタをよく知る人からすれば納得のコラボレートであろう。

パンタ、58歳。
僕が
10代のころから大好きだったパンタは、
昨日のステージ上でもいまなおパンタであった。
僕はそれがうれしくてうれしくて仕方がなかった。

ライブのラストはエンケン&響による、
エンケンの『不滅の男』と頭脳警察の『悪たれ小僧だった』。
演奏が終わったあともアンコールの拍手は鳴り止まず、
しまいには菊池氏がカーテンコールよろしくステージに再登場し
「今日はもうおしまいですので、あきらめて帰ってください」という
爆笑コメントを吐くほどの盛り上がりをみせた。

先月のエンケンvs遠藤ミチロウといい、
昨日のエンケン
vsパンタといい、実に素晴らしいライブ体験であった。

次はぜひ、エンケンvs早川義夫さんを観たい。
果たして僕の破竹の奇跡人生は、これからも続くのか否か
?
実に楽しみな42歳・後厄年の夏である。

2008.07