萩原健一「ララバイ」

「待ってろよ!
という言葉を口癖のようにいっていた俳優がいた。
金子正次、享年
33歳。
“竜二”というたった
1本の主演映画で伝説になった男だ。

“竜二”
は金子正次の脚本・主演による自主制作映画で、
19831029日にいまは丸井になっている場所にあった
新宿三丁目の劇場で公開された。

この公開当日、金子正次は倒れた。
胃ガンであった。
そして、
116日に亡くなった。

僕がこの映画“竜二”のことを知ったのは、
金子正次の没後であった。
雑誌で“竜二”についての記事を読んだのだ。

「ビートルズ世代のヤクザ映画」
…そんな書かれ方をしていたような気がする。

僕はビートルズ世代という言葉が大嫌いなのだが、
記事を読んでいるうち
“竜二”について興味をかき立てられずにいられなかった。

新宿をシマとする竜二という羽振りのいいヤクザが、
別れた妻子のために堅気になるというストーリーの、
いわゆる出入り
=暴力のシーンがほとんどない映画、
記事にはそんなことが書かれていた。

僕は特にヤクザ映画のファンではなかったのだが、
なんとなくこれは新しいタイプの映画なのではないかと思った。
無名の俳優が手弁当で
制作費を捻出してつくった自主映画というのもカッコいい。
これぞパンクだ!!
僕は機会があったら、ぜひ観てみようと思った。

はじめて“竜二”を観たのは、池袋の文芸座の地下だった。
1984年の春だった。
ジュリー主演の“ときめきに死す”との超豪華
2本立てであった。

はじめて観た“竜二”は、
前評判以上のとにかくすごい映画だった。
竜二という男のカッコ良さとカッコ悪さが
素直に表現されていた映画だった。

僕は見終わってもまだ観たくて、
結局“ときめきに死す”をもう
1回観て、
再びスクリーンに映る竜二と再会した。

文芸座を出たあと、
僕は普段から持っていたサングラスをかけ、
竜二気取りで夜の池袋の街を歩いた。
このあたりは“ロッキー”を観たあと、
ボクサー気取りになってしまう少年と何ら変わらない。
実に単純である
()

その後も、何度も僕は“竜二”を観るため、
東京中のあちらこちらの名画座を回った。

“竜二”がビデオ化されたとき、
僕はまだビデオデッキを持っていなかった。
ビデオデッキを購入してから、しばらくたったある日、
僕は無性に“竜二”が観たくて観たくてたまらなくなった。

レンタルビデオ屋さんを数軒回ったのだが、
残念なことにどこにも置かれてなかった。
でも観たい。
いますぐ観たい。

僕は欲望の鬼と化していた。
“竜二”を観たいという欲望の。

あとにも先にも、これほどまでに渇望した映画はない。
そんな僕に福音がもたされた。
中野の北口にあったビデオショップで売られていたのだ。
値段はたしか
13800円ぐらいだったと思う。

この日、僕は財布のなかに15000円ぐらいあった。
しかし、お給料日まではまだまだ日があった。
ここで
13800円を“竜二”につぎ込んだら、
明日からどんな生活が待っているか、それは十分わかりきっていた。
しばし躊躇した後、
僕は“竜二”のビデオソフトを持ってレジへと向かった。

金子正次は、“竜二”でスターになると信じていた。
「俺が通りに立っただけでファンがむらがってくるようなスターになってやる」
そう周囲に漏らしていたという。

そして「待ってろよ
!」と。

金子正次の“竜二”は映画としても高い評価を受け、
日本アカデミー大賞の新人賞をはじめ数々の栄誉に輝いた。
新人賞授与の際、泣きながら賛辞を贈っていた
大島渚監督の姿はいまも忘れられない。

金子正次はたった1本の映画でスターとなり、
そして伝説となった。


“竜二”のオープニングとエンディングで使われていた曲が、
萩原健一の『ララバイ』である。

生前、金子正次はこの曲と出会わなければ
“竜二”は生まれなかったと語っていた。

オープニングで、歌舞伎町にあるビルの階段から
タバコをふかしつつ降りてくる竜二の姿を真似て、
僕もよくその階段を上ったり降りたりしたものだ。

その階段はたぶん、いまもあるはずである。


金子正次と生前親しく、
最期も看取った大スターが松田優作である。
あとで知ったのだが、
金子正次を世に出すために松田優作はかなり動いていたという。

しかし、ショービジネスの世界は、
たとえ大スター・松田優作の推薦があったとしても
無名の新人・金子正次に快く門戸を開くほど甘くなかったのであろう。
松田優作の努力は、なかなか実を結ばない日々が続いた。

そんな日々のなか、金子正次は親しい人間に
「松田優作はなんやかんやいっても、俺が世に出ていくことを恐れている」
というようなことを漏らしていたという。

金子正次の死から6年後の1989年。
松田優作はハリウッド映画“ブラックレイン”で国際的に高い評価を受けるなか、
膀胱ガンにより亡くなった。
国際的なスターへの道半ばでの死であった。

奇しくも
116日。
金子正次が亡くなった日と同じ日であった。


2007.07