H2O「想い出がいっぱい」


昨日、都庁に出かけてきた。
新銀行東京の融資金詐欺事件に対して、
旧経営陣の責任だといい放ち、
自らはまったく責任を感じていないかのような態度を見せる都知事の慎太郎くんに、
ひと言ビシッといってやろうと思ったのだ。

という、ことではなく、
東京都の水について調べに行ってきたのである。

よく「東京の水は不味い」という声を聞く。
事実、僕もそう思ってきた。
ので、ここ
20年以上、水を飲むときはミネラルウォーターの類いを飲んできた。
間違っても、蛇口からそのまま水道水を飲むことはなかった。

そうしたことを受けて、
都の水道局では「安心でおいしい水プロジェクト」に取り組んでいるという。
聞けば国が定めた
51項目に及ぶ水質基準より高い目標値を設定し、
水道水の美味しさを追求しているらしい。

また、先端技術による高度浄水処理を浄水場に順次導入し、
水の不味さの原因となる有機物やかび臭物質、
カルキ臭発生の原因となるアンモニア態窒素の除去に務めるとともに、
古くなった水道管を取り替えたり、
受水槽に水を溜めることなく配水管の圧力で蛇口に直接水を送れる
「直圧直結給水方式」なる給水方法を普及させたりするなどして、
蛇口から安心して美味しい水を飲めるような取り組みを推進しているというのだ。

恥ずかしながら僕は都がそんな取り組みをしていることなど、
まったく知らなかった。
あらためて事実を知りもせず思い込むことの怖さを知った。

しかし、取り組みは取り組みである。
行政について大切なのは取り組むことではなく、
取り組んだことがどれだけ実現できているかである。
実現できない取り組みは、まさに税金の無駄遣いに他ならない。

じゃあ、東京の水は果たして美味しくなっているのか?
美味しい、不味いは理屈ではない。
いくらいっていることが、やっていることが正しくて立派でも
不味けりゃしょうがない。

かくなる上は自分自身の体験で判断しようと思い、
昨日お土産にもらってきた「東京水」なる、
思わず「そのまんまやないけ
!!」と関西弁でつっ込みたくなるようなネーミングの
ペットボトル入りの水を今朝起き抜けに飲んでみた。

ら、不味くはなかった。
美味しいと絶賛するほどではないが少なくとも普通に飲める。
これならお金を払ってわざわざ飲料水を買わなくても良さそうな気がした。
水道局の人によれば、
1リットルから2リットル入りのペットボトル水が100円から200円なのに対し、
水道水はその約
1000分の1、リッターあたりわずか約0.1円だという。

個人的には何かにつけ偉そうな態度の慎太郎くんは昔からあまり好きではないのだが、
こうした取り組みに対しては正統に評価してあげたい。
それより何より、
人々の豊かな生活のために真剣に取り組んでいる都の職員もちゃんといることを知り、
ちょっとだけうれしくなった。

昨日の夕方、
自分がまったく知らなかったいい話を聞くことができたという
充実感にひたりながら、都庁を出たあとホテホテと歩いて
JRの新宿駅へと向かった。
総武線で水道橋まで出て帰ろうと思ったのである。
帰ったらすぐに取りかからなければならない仕事があったので、
本来であれば都庁前から大江戸線で春日に帰るというルートが最短なのだが、
新宿駅まで歩き、さらに水道橋から歩いて帰ったとしても
1時間も2時間も違うワケではない。
しかも仕事は今夜中にこなせばいいのである。
気持ちのいいときは、ちょっと歩いてみたいものだ。
このささやかだが確かな幸せは誰にも邪魔させん、
などと自分に都合のいい理由をつけながら新宿駅へと向かった。

駅の階段をのぼりホームに着いたら、ちょうど電車が来た。
3両目のいちばん後ろの扉が目の前にあったのだが、
僕はちょっと気まぐれを起こし、
4両目の前のほうに乗った。

この一瞬の気まぐれが、不思議な奇跡を起こした。

新宿を出て代々木を過ぎ、千駄ヶ谷に着いたとき
目の前の扉から見覚えのあるオトコが乗ってきた。
以前勤めていた会社のマネージャーだった。
マネージャーは僕に気づかず、僕とは反対方向に行こうとしていた。
すかさず、僕は「マネージャー♪」と声をかけた。

人口1,200万人の東京で、
偶然知り合いに会う確率は果たしてどんなものなのだろうか
?
かつて高校の数学のテストで
見事
0点をとったことがある僕にそんな細かい計算は無理だが、
いずれにしても奇跡的な確率だと思う。

マネージャーに最後に会ったのは去年の年末だった。
僕らはお互いの近況を語りながら、
近々またゆっくり会うことを約束して、水道橋で別れた。

以前、僕がまだ勤めていたころ、
別会社を興して新しい事業をはじめるという話を
社長とマネージャーと
3人でよくしていた。
強烈な上昇志向をもつ社長は、
同世代の若き有名実業家たちのようになりたくて、
なんでもいいから広告代理業とは別の事業をしたくてしたくて仕方がなかったのだ。


目指す方向性も決まらないなか、
ある日突然マネージャーが社名は「
H2O」にしましょうといってきた。
なにをする会社なのかも決まっていないのに、名前だけ考えてきたのだ。

なぜH2O?という僕にマネージャーは、
H2Oって水じゃないですか。水がなければ人は生きられないわけで、
そんな絶対的に必要なものだから社名にしたいんですよ。
もし、僕が会社を興すんだったら、必ず
H2Oにしますよ」と力説したものだ。

結局、気まぐれな社長に振り回され、
事業コンセプトがあっちに行ったりこっちに行ったりするとともに、
僕が途中で退社してしまったのでこの
H2O計画は実現しなかった。

しかし、別会社を興して新事業を立ち上げるということは
社長が知り合いから紹介された経営コンサルタントを交えて継続して話し合われていたようで、
今年の
5月にようやく実現したらしい。
残念ながら新社名は
H2Oではなかった。
そしてマネージャーは、その新会社へ異動となった。
僕が勤めていた会社の取締役ではあるが新会社の役員ではなく、
扱いもイチ営業マンでというハナシを風の噂で聞いていた。

マネージャーは広告代理店の営業マンをしている自分が好きだった。
アドマンである自分自身に誇りをもっていたといえば聞こえはいいが、
ぶっちゃけたいい方をすれば広告代理店に勤めていることがカッコいいと思っていたのである。
が、しかし、新会社は広告代理店ではない。

僕は広告が好きで、
自分が信じる広告づくりがしたくて会社を途中で抜け出した。
サラリーマンでいるより、クリエイターでいたかった。
サラリーマン時代と比較にならないほど
経済的な不安感と常に背中合わせの毎日ではあるが、
この判断に後悔はない。

アドマンでいたかったマネージャーは、
サラリーマンの宿命として会社の事情により配置転換を余儀なくされた。
その内示を受けたときの心境を思うと、
アドマンでいたかったマネージャーを知っているだけに、
余計なことではあるがちょっぴり複雑な気持ちになる。

「生きることは妥協すること」と書いたのは江戸川乱歩だが、
大人になるということもまた妥協することなのかも知れない。

今朝「東京水」を飲みながら昨日のことを想い出し、
ふとそんなことがアタマをよぎった。

その後、友人のブログを見たら、
具体的なことはわからないのだが、
過去にあったある出来事をずっと引きずって
想い出の箱にしまうことができずにいたのに昨日、
突然神が舞い降り、自分自身のなかでくすぶっていた火がふいに消えた
ということが書かれていた。
文末は「思い出にしてしまえる」とあった。

この文章を読んで僕のアタマのなかにふと浮かんだメロディが、
H2Oの『想い出がいっぱい』であった。
そういやマネージャーもこの歌が好きで、
一度一緒にカラオケに行ったとき唄っていたなということを想い出した。

この昨日から今朝にかけての奇妙な偶然。
読者諸君の目には、ヘタなつくり話のように映るかも知れないが、
すべてまぎれもなく本当のことなのである。

H2Oの『想い出がいっぱい』・・・
僕はこの歌を熱心に聴いていたわけではないのだが
「古いアルバムの中に」という唄い出しと
「大人の階段昇る 君はまだシンデレラさ」
(作詞: 阿木燿子)という
サビの部分のフレーズはいまでも憶えている。

誰もが心のなかに想い出という名の古いアルバムを持っている。
そのなかには燃やしてなくしてしまいたいような想い出も
人それぞれに
1つや2つはあるだろう。
僕にだってそんなのは、いっぱいある。
アルバムをめくってはため息をついたり、
アタマをかきむしったりしながらここまで生きてきた。

年齢的には十分大人なのだが、
僕はなかなか「まあまあ、大人なんだからそこはひとつ」という考え方ができない。
精神的には子どものころのバラガキのままだ。
舌打ちなんか、しょっちゅうしている。
まだまだ僕も大人の階段をのぼり続けている
シンデレラならぬピーターパンなのだろう。

でもいいのである。僕は未完の大人で十分だ。
階段なんか死ぬまでのぼり続けてやる。

ワケ知り顔の大人にはならなくてもいいから、
この広い広い世のなかで奇跡的に出会えた大切な友人たちがもし、
階段をのぼっている途中でノドが乾いたときに、
さりげなくその乾きを癒してあげられる美味しい水に、
せめてなりたいものである。


2008.10