グランド・ファンク・レイルロード「ロコモーション」

後楽園球場での最大の伝説といえば、
僕は
1971年の717日に行われた
グランド・ファンク・レイルロード
(以下、GFR)のコンサートを挙げたい。
すさまじい雷雨のなか行われたロック史上に残るコンサートである。

もちろん僕はこのコンサートを体験してはいない。
雑誌での写真や記事、
そしていろんな人からの話を見たり聞いたりしただけだ。

このコンサートでの写真を見るだけで、
当日のすごさが伝わってくる。
本当に土砂降りなのだ。
よく
GFR3人は、演奏を拒否しなかったと思う。

一説には、感電の恐れがあるため楽器に電源は入っておらず、
テープが流されていたというハナシもあるが、
そんなことはどうでもいい。

GFRは雷雨の後楽園球場で
コンサートを行ったということだけが真実なのだ。
かくして
GFRは伝説となった。

僕にとってGFRといえば、
やはり『ロコモーション』となる。
カイリー・ノミーグや
懐かしのゴールデン・ハーフもカバーしていた
オールディーズナンバーである。

原曲はリトル・エブァという黒人少女が歌い、
1962年に全米No.1を獲得している。
作曲は後にアルバム“つづれおり”でグラミー賞
4部門を制覇した、
かのキャロル・キングである。

僕はハードロックがあまり好きではないこともあって、
GFRについてもそんなに詳しいことは知らない。

GFRの『ロコモーション』を聴くと、
ハードロックというイメージはまったくといっていいほどない。

どういう経緯でこの曲をカバーすることになったのかは、
あいにく不勉強で把握はしていないのだが、
もし自分たちの意に反してリリースしなければならなかった曲が、
代表曲のひとつとなってしまうのは、
本人たちとしても素直に喜べないような気がする。


1988
年のチープ・トリックがそうである。
しばらく低迷していたチープ・トリックが、
『永遠の愛の炎』で全米ナンバーワンを獲得するとともに、
新たなファンをも獲得した。

しかし、この曲はチープ・トリックのオリジナルではなく、
プロのソングライターによる、
いわば大ヒット狙いのプロジェクトだったのである。
自分たちのオリジナルでない曲が大ヒットしたところで、
あまりうれしくはなかったのであろう。
チープ・トリックの面々は、
この曲に関してあまりいいコメントを残していない。


やはり、クリエイターである以上、
自分の作品で勝負したいと思うのは当たり前である。
もし、僕がディレクションだけをして、
別のコピーライターが書いたコピーが絶賛されたとしたら、
やはり心中は複雑だと思う。

僕も以前は、広告業界で大成功を収めたいと思っていた。
そのためなら早死にしようが、
クリエイターとしての魂を売ろうが、
かまわないと思っていた時期があった。

 わが命 燃え散るまでの 幾年を

 悪魔に売りても 成したきことあり

これは、僕が20代の頃につくった短歌である。
いまは、そうは思わない。
もちろん、もっともっと成功したいとは思うが、
それは結果であって、目的ではないと思えるようになったのである。

成功することを目的に仕事をするのではなく、
日々一生懸命に働いた結果、
いいことが待っていたというふうになればいいなと考えている。

そっちのほうが、なんとなくうれしさも格別のような気がするのだ。


私見ではあるが、
GFRだって伝説をつくろうと思って来日したわけではないだろう。
しかし、豪雨のなかでも自分たちを待ち続けているファンのために、
プロとしての務めを果たすべく演奏を強行した。
その結果が、いまも語り継がれる雨の後楽園伝説なのである。

GFR3人は、きっとあの夜、
演奏してよかったと思ったに違いない。

働いたあとの充足感は、
やるべきことをやった者だけに与えられるご褒美なのだ。


2007.01