ドクター・ケスラー「メケ・メケ」
昨日『ヨイトマケの唄』をとり上げたが、
美輪(丸山)明宏さんの代表曲として忘れてはならないのが1957年、
フランスのシャンソンを日本語でカバーした『メケ・メケ』である。
僕は正直いってこの曲をずっと知らなかった。
僕がまず『メケ・メケ』という曲を知ったのは、
1981年に発売されたスネークマンショーのファーストアルバムによってである。
このアルバムのなかで、加藤和彦氏とムーンライダーズの面々が
ドクター・ケスラーという変名で『メケ・メケ』をカバーしていたのだ。
これは実に名演奏であった。
僕のなかでは日本人によるカバーソングの三指に入る。
この曲を聴くがためだけに
スネークマンショーのアルバムを買っても決してソンはない。
加藤和彦氏自身も『メケ・メケ』はかなりのお気に入りと見えて、
ステージでも何度か披露している。
昨年、シャンソン歌手の石井好子さんによるチャリティコンサートでも、
この曲を演奏したそうだ。
スネークマンショーは桑原茂一がプロデュスしたコントユニットで、
メンバーには咲坂守こと小林克也さんと、
畠山桃内こと伊武雅刀さんがいた。
とはいえ、活動拠点はテレビではなくラジオで、
その正体は長らく謎だった。
僕はTBSラジオで放送されていたスネークマンショーのコントが大好きで、
よく夜中にゲラゲラ笑っていたものだ。
スネークマンショーは当時はタブーとされていた同性愛をとり上げたり、
しばし反権力・社会的批判を込めたコントや過激な下ネタを展開していた。
そんなことも影響してか、
スネークマンショーはTBS上層部の判断により、1980年打ち切られた。
しかし、同年に発売されたYMOのアルバム『増殖』に参加したことで、
スネークマンショーの人気は一気に高まり、
前述のとおり翌81年にスネークマンショーとしてファーストアルバムを発表した。
このファーストアルバムは大ヒットし、
81年には早くもセカンドアルバム“死ぬのは嫌だ、怖い。戦争反対!”をリリース。
そして82年には“スネークマンショー海賊版”なるカセットを発売した。
人気絶頂のなか、
次第に桑原&畠山(伊武)と咲坂(小林)の意見のくい違いが目立つようになり、
小林克也さんはスネークマンショーを脱退。
1983年に発表した“ピテカントロプスの逆襲”には参加していない。
僕らが10代の頃は、
よくスネークマンショーについて仲間たちと語り合った。
声と音だけで笑わせるというスネークマンショーのスタイルは、
いいイマジネーションの刺激になったと僕は思っている。
僕らが10代だった頃と現在とで明らかに違うのが、
情報の量である。
僕らが音からイマジネーションを働かせていたことを、
いまはいともたやすくビジュアル化された情報を手に入れることができる。
なんかいろんなことが短絡化されているように感じられてならない。
いろんなことがコンピュータのように2進法の世界になっているような気がするのだ。
もちろんそれはそれで便利だし、否定はしない。
しかし、イマジネーションを働かせる訓練を行っていない人間ばかりになったら、
世の中はちょっと怖いと思う。
いまの10代にスネークマンショーを聞かせたら、
果たして笑うだろうか?
『メケ・メケ』の軽快なメロディを思い浮かべながら、
ふとそんなことを考えた。