ドクター・フィールグッド&ジ・インターンズ「ミスター・ムーンライト」


今日は128日である。
128日といえば、いわずと知れたジョン・レノンの命日である。
あれから
28年も経ってしまったのだ。
当時
14歳だった僕は今年42歳になった。
ジョンは
28年経っても40歳のままである。

以前も書いたが、僕はジョンを「愛と平和の人」とするのを好まない。
たしかに、そういう一面はあった。
たしかにジョンはやさしい男だった。

ジョンの人柄についてとても印象に残っているのが
映画“イマジン”の前半に出てきた、
ジョンの家の庭に潜んでいたファンとのやりとりである。
ジョンの歌に影響を受けたこの若い男性に対しジョンは玄関先で
「曲と現実を混同するなよ。君の人生と似ているのは僕の曲だけじゃない。
会ってわかっただろ、僕はただの男だ」と丁寧に語りかけていた。
そして話がいち段落したところで
「腹は減ってないか
? 一緒に何か食べよう」といって自宅のなかに招き入れた。
次のシーンで、その若い男性はジョンと一緒にテーブルに座り、パンを食べていた。

この一連のやりとりは、
どことなくジョンの最期を暗示しているようで
観るたびに胸が痛まずにはいられないのだが、
その反面いかにもジョンらしいなと思わずにはいられない。

たしかにジョン・レノンという人はそういう人だったのである。
面倒見のいい、やさしい男だったのである。

が、決してそれがすべてではない。
ジョンはロックンローラーだったのだ。狂気の天才だったのだ。
だから、僕はジョンを追悼して『イマジン』や『平和を我等に』を聴こうとは思わない。

むしろ“狂気の天才ロックンローラー”ジョン・レノンが喜びそうな曲で追悼したい。


1984
年のお正月、山下達郎が当時NHK-FMでやっていた
“サウンド・ストリート”という番組に大滝詠一がゲストとしてやってきた。
そのとき流されたのがドクター・フィールグッド
&・インターンズの
『ミスター・ムーンライト』である。
ご存知、ビートルズの
4枚目のアルバム“フォー・セール”において、
ジョンが声も張り裂けんとばかりに絶叫している
あの『ミスター・ムーンライト』の原曲である。

この曲を流しながら大滝詠一は、こんなことを話していた。
128日にビートルズの曲や『イマジン』を流してジョンを追悼するのもいいけれど、
このドクター・フィールグッド
&・インターンズ『ミスター・ムーンライト』や、
(これまたビートルズもカバーした)アーサー・アレキサンダーの『アンナ』など
ジョンが好きだった曲を流すほうがジョンの追悼にふさわしいのではないか、と。

僕もまったく同感である。
だから、今日はジョンも大好きだった伝説のロックンローラー、
バディ・ホリーの曲を朝から聴いている。


毎年
128日前後になると、いよいよ年の瀬という気がしてくる。
先週の金曜日、そんな思いにかられながら年賀状の準備をはじめた。
そしてその夜、久しぶりに前の会社の後輩たちと会った。

当初のメンバーは後輩コピーライターのスズキくんに経理のフジサワさん、
そして女性デザイナー
2名であった。
指定された時間どおりに待ち合わせの場所に行ってみたら、誰もいなかった。

「まったくしょうがねえな」と思いつつ、
待ち合わせ場所にボンヤリと立っていたらスズキくんから電話があった。
「タカハシさん、いまどこです
?」というスズキくんの声を聞きつつ、
あたりを見たらスズキくんがこっちに向かってくるのが見えた。
待ち合わせ時間を
5分ほど過ぎていた。

「いやあ、すみません」と頭を下げるスズキくんに対して
「オマエな
! このオレを待たせんな!!」と罵倒してやったのはいうまでもない()
僕に罵倒されながらスズキくんは、
今日来るはずだった後輩デザイナーの
1人が体調を崩し
早退してしまったことを教えてくれた。

この後輩デザイナーとは僕が退職してから何度も一緒に飲もうといっていたのだが、
ずっと実現できずにいた。
今年の
8月にスズキくんやフジサワさんを交えて
「今度こそは絶対に会おう」と約束したのだが、
ナント彼女はその
2日前に酔っぱらって階段から落ち、
肋骨を骨折するというド派手なことをやらかし会えずじまいになっていた。

久しぶりにゆっくり話ができるのを楽しみにしていただけに
会えないのはとても残念だったが、それはそれでしょうがなかった。

もう1人の後輩デザイナーはもうじき会社を出るということだったので、
僕はスズキくんに連れられて先にお店へと向かった。
この後輩デザイナーも
8月にスズキくん&フジサワさんと一緒に会う予定だったのだが、
その日は仕事の都合がつかず会えずじまいだった。
会うのは、僕が退職した日以来であった。

しばらくお店で待っていたらフジサワさんと後輩デザイナーと一緒に、
長らく闘病生活を送っていたチーフもやって来てくれた。
チーフは僕が退職する直前に再入院してしまったので、
会うのは
1年と78か月ぶりであった。
8月にスズキくんたちと会った際、
病気が再発して再入院したことを聞きずっと心配していたのだが、
思いのほか元気そうだった。

一昨年に入院してから一度も髮を切っていないという超長髪のチーフに対し、
僕は「いやあ、オレもインチキ臭いけどチーフには負けまっすね」と憎まれ口を叩き、
みんなの笑いを誘った。

結局、お店を出たのは12時近くだったのだが、
その間の話題の大半はみんなの会社に対する不平・不満であった。
その内容は、経営的にも社内の雰囲気的にも僕の想像をはるかに超えたものだった。
まさに会社は迷走状態に陥っていると思った。

チーフは会社のリーダー職を追われ、
お給料はこの
2年間で8万円も下げられたという。
また僕が退職するときにはチームリーダーであった後輩デザイナーもその職を追われ、
3万円近く減給されたという。

いま会社でリーダーシップをとっているのは、
社長や専務にとって「都合のいい人間」ばかりだとスズキくんは憤っていた。


が、僕はもはや社内の人間ではない。
僕にできることといえば静かに話を聞いてあげて、
ところどころでアドバイスするぐらいしかなかった。
僕はあらためて、この後輩たちを置き去りにして
自分だけそそくさと退職してしまったことに対し、罪悪感を覚えた。

聞いた話によると、この日来てくれた後輩デザイナーも、
来られなかった後輩デザイナーも、ストレスで出社がままならないときがあるという。
そして、来られなかった後輩デザイナーについてスズキくんは
僕と二人だけになった帰り道「タカハシさんがいなくなって、
きっと何かが彼女のなかで壊れちゃったんですよ。
いまは防波堤になってくれる人がいなくなってしまいましたからね」とポツリといった。
僕は「ゴメンな」というのが精一杯だった。

スズキくんと後楽園の駅で別れたあと、
僕は今日来てくれたみんなにありがとうのメールを送った。
すぐにチーフから返事があった。
「まだまだ話し足りないぐらいなので、また会いましょう」と書かれていた。
僕も最近引っ越したばかりというチーフの新居購入祝いを兼ねて近々遊びに行きます、
と返事を送った。

そして、帰宅してから今度は後輩デザイナーからメールが届いた。
「まだ会社の人たちには内緒なのですが、来年結婚する予定ができました。
そのことでも相談したいと思っていますので、
またお時間がありましたら付き合ってください」と書かれていた。
僕は突然の結婚話にビックリして、スグに「それはおめでとう」というメールを送った。ら、彼女からすぐさま返事が届いた。
ナント
!相手は社内で、僕も知っている人間だという。
ますます驚いた僕は「今度じっくり話を聞かせてちょうだい」と返事をした。

まだ社内的にも公にしていない結婚の予定を教えてもらえる僕は、
なんて幸せなヤツなんだろうと思った。
そして、彼女を仕事で
2回も泣かしたな、なんて想い出にひたりながら
朝の
4時近くまで幸せの余韻にひたっていた。

次の日、目が覚めたらのは10時過ぎだった。
その直後、フジサワさんからも「昨日は楽しかったです」というメールが届いた。
すぐに、再会を約束するメールを送った。

さらにその夜、今度はスズキくんからメールが届いた。
今年の
5月、スズキくんの誕生日にお祝いメールを送ったのに
見事に無視してくれたスズキくんである
()
あら珍しい、いったいどうしちゃったんだ?と思いつつケータイを見たら
「いや〜自分、よほど溜め込んでいたのでしょうね、
タカハシさんの顔を見たら急にタガがはずれたようになってしまい、
いま振り返ってみるとちょっと異常なほど毒づいてしまいました」と
会社に対する不平・不満を語り続けたことに対するお詫びに続き
「しかしながら、あの時間はいまの自分にとっては大きな救いになったのもまた事実。
どうかこれに懲りず、また一緒に飲みに行ってくださることを切に願っております」と書かれていた。

僕はこのメールを読んでいるうちに涙が出てきてしまった。
スズキくんのメールでなんでオレが泣いているワケ
?と自分を茶化しつつも、
いろいろな思いとともに涙があふれてきて仕方なかったのだ。

あらためて、僕は幸せ者だと思った。

昨年、スズキくんがくれた年賀状は服を着ているオノ・ヨーコさんに
一糸まとわぬ姿のジョン・レノンが抱きついているという写真のものだった。
たしか死の直前に、アニー・リーボヴィッツが撮影したものである。
届いたのは、会社がすでにお正月休みを終えてからだった。
「オマエな
! 仕事始めになってから年賀状が届いてどうするんだよ!!」と
僕に罵倒されたのはいうまでもない。
今年もスズキくんからの年賀状が届いたのはたしか
5日過ぎだったと思う。

金曜日の夜、年賀状の話題が出た。
僕はスズキくんに「いいか
! もし元旦にスズキくんからの年賀状が届かなかったら
オマエは出入り禁止にしてやるからな
!!」と脅してやった。
スズキくんは「カンベンしてくださいよ〜」と泣きついていた。

なんやかんやいっても、僕にとってはかわいい後輩なのである。

土曜日の夜、グスングスンいいながらスズキくんにメールの返事を書いた。
金曜日「いまの会社は、給料をもらうただそれだけのために勤めているようなものですよ」
といっていたスズキくんに対し
「自分の才能を信じて常に前向きにいてください」と書いた。

128日を過ぎると、本当に年の瀬である。
2008年も残すところ、あと3週間あまりなのだ。

きっといまごろはジョンの『ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)』が
街中のあちらこちらに流れているだろう。

かわいい後輩たちにとって今年は本当にストレスのたまる、
まさに「戦いのような日々」の連続だったに違いない。

そんな後輩たちにとって来年は『スターティング・オーバー』よろしく、
大きな飛躍の年になってほしいなと心から思う。


2008.12