ドアーズ「ジ・エンド」

6日の水曜日の午後、僕は取材のため、とある病院を訪れていた。
玄関を入ったすぐ左に、救急処置室があった。
そのなかに、僕の目の前にあった椅子にポツンと座っていたひとりの女性が、
看護師さんにうながされて入っていった。
次の瞬間、悲鳴のような号泣が聞こえた。
僕が立っていた場所から距離にして
10数メートル。
扉ひとつ隔てたところに、一人の人間の死が存在していた。

若かりし頃、僕は27歳で死ぬのだと友人たちにいいまくっていた。
ジム・モリソンの享年が
27だからである。
ドアーズは
10代の頃から大好きなバンドで、
ジム・モリソンは僕のアイドルの1人だった。

Don’t trust over thirty”・・・僕は30歳になんか、
絶対なりたくなかった。
ジム・モリソンより長生きしたいなどとは思わなかったのである。


僕が死んだらお葬式はしないでほしい。
その代わり、みんなで集まって『ジ・エンド
を聴きながら
僕について語ってほしい。

10代の頃、僕はこんな自分の葬儀プランを考えた。
この考えは、いまも変わらない。

僕がまだ中学生の頃、
フランシス・コッポラ監督の“地獄の黙示録”のオープニングで流れた
『ジ・エンド』
を聴いたとき、
僕はすごい曲とすごい映像が融合したときに生まれる
映像美のすさまじさに全身がサワサワしたことを覚えている。
いまだに僕のなかで、この映像を超えるものはない。

『ジ・エンド』
といえば、もうひとつ懐かしい想い出がある。
あれは
1985年、いまは都庁庁舎が建っている一帯は巨大な空き地であった。
そこで行われた“
Tokyo Collection”に当時、僕が好んで着ていた
PASHUというブランドのショーを見に行ったときのこと。
ショーのラストで使われたのが、またしてもこの曲だったのである。
ここで見た音楽と照明とファッションの融合も、
実に幻想的な素晴らしい世界であった。

ショーが終わったあとも、どこか現実ばなれした余韻を感じながら、
新宿駅へと向かったことを憶えている。

『ジ・エンドという曲は、決して派手さはないのに
不思議とさまざまなビジュアルにマッチする曲だと思う。

僕の友人にもドアーズファンは多い。
そのなかで、ドアーズのことならこのヒトに聞け!というのが、
一級建築士の
Kさんである。
Kさんは僕の両親と同世代の人で、
たいこめという言葉遊びのサークルのようなもので知り合った。
Kさんは、わざわざドアーズの資料を求めてアメリカに行ったり、
パリにあるジム・モリソンのお墓参りにも行ったりという、
僕なんぞは足元にもおよばないドアーズフリークなのだ。

ジム・モリソンは1971年の73日に
パリのアパートの浴室で溺死したとされているが、
その死体を第三者が誰も見ていないことから、根強い生存説がある。
ジム・モリソン自身も死の直前に
「オレはロックンロールのスターダムの罠にはまってしまった。
ここから逃げ出すためには、
もはや死を偽装してどこかに逃亡するしかない」と語っていたと伝えられることも、
生存説の強力な根拠とされている。

僕がKさんとはじめて会ったとき、
2人で熱くドアーズ談義をしていたら、
Kさんは驚くべき話をしはじめた。
生きているジム・モリソンに会ったというのだ。
しかも、日本の酒場で。


K
さんいわく、ジム・モリソンは日産のセールスマンをしていたという。
「敬愛するランボーを見習って商人になったのではないか」
というのが
Kさんの分析だ。
たしかに日本なら隠匿生活を送るにはバッチリの環境だと思う。

さらに
Kさんは、ジム・モリソンの名刺を見せてもらったというのだ。
その名刺には、読者よ!友よ
!! 驚くなかれ“ジム森村”と書いてあったという!!!!


ドアーズに関するエピソードは、
さまざまな書物でいろいろと書かれているが、
僕はこの
Kさんの話が、ドアーズにまつわる話のなかでいちばん好きだ。

事実かどうかなんて、好きなものの前ではどうでもいいことなのである。


ジム・モリソンは
1943年の、ナント128日生まれだから、
生きていればメデタク
63歳である。
さすがに日産のセールスマンはもう引退しているだろう。

ジム・モリソンは生涯何台の日産車を販売したのだろうか?


2006.12