シンディ・ローパー「マネー・チェンジズ・エヴリー・シング」


先日、僕が勤めている会社の女性デザイナーと夜遊びについて話していた。
その会話のなかで彼女の元上司もフィリピンパブにはまって、
結婚までしたという話が出た。

昨日も書いたように、
僕はフィリピンパブには何度も行ったことがある。
でも、僕はそれほど夢中になれる場ではなかった。
もちろん女性に入れ込んだりもしない。
そこで過ごす数時間が楽しければ、それで
OKというスタンスだった。

僕が以前、恥骨炎という情けない名称の股関節の故障を抱えていたとき、
通っていた整体の先生は極真空手の有段者だった。
ある日、治療を受けながらその先生の空手のお師匠さんも
フィリピンパブにはまってしまって大変なことになっているという話を聞いた。
そのお師匠さんは奥さんに先立たれてしまった
72歳で、
財産のすべてをお目当ての女性につぎ込もうとしているという話だった。

よく遊びを知らない人間が、
40過ぎて遊びを覚えてしまうとエライことになるという話を聞くが、
この空手のお師匠さんもその類だったのかもしれない。

そう考えると、遊びというのは
若いうちに通過しておくべきだとつくづく思う。

僕の先輩にも似たタイプがいる。
以前、一緒に勤めていたデザイナーなのだが、
ほとんどお酒が飲めなかった。
しかし、転職した先で
フィリピンパブやらコリアンパブやらの遊びを覚えてしまったのである。
年齢はちょうどいまの僕ぐらいだった。

ある日、飲みに誘われたのだが
上野広小路のチャイナパブに行ったあと、
錦糸町のフィリピンパブに連れて行かれた。
どちらのお店でもレミーマルタンをボトルキープしていた。

僕はブランデーというのがあまり好きではない。
ので、なめるようにブランデーの水割りをすすりながら、
先輩デザイナーの狂態を観察していた。
人間変われば変わるものだなと思った。

転職した先でこの先輩デザイナーは、
新設されたばかりの制作部の長となった。
会社の接待費も自分で使える立場であったし、
何より発注権を握っている人間なので、
外部の会社から接待を受けようと思えばいくらでも受けられた。
そんななかで遊びを覚え、少しずつ狂っていってしまった。

そんな先輩の姿を見ながら僕はシンディ・ローパーが唄った
『マネー・チェンジズ・エヴリシング』という歌を思い起こしたものだ。

自慢ではないが、僕は接待費というものを使ったことがない。
すべて自腹である。
・・・そもそも僕に接待費を自由に使う権利がなかったということなのだが・・・。
そして、いわゆる業者からの接待を受けたことがない。
一緒に飲みに行くことはあっても、
自分の分はキチンと払うように心がけてきた。
いい仕事をしようと思ったら、お金にはきれいであるべきだと思う。

先日、クライアントと飲みにいった際、
ひと晩で
6万円近くのお金を使ってしまい、
いまは
6月のお給料日を待ちながら質素な生活を続けている()

僕はもう夜遊びも卒業したし、そんなにお金を使うわけではない。
でも、いつ何があるかわからないから
いつも
3万円ぐらいはサイフのなかに入れていたい。
中島らもの本には、
たしか年齢×1,000円をサイフのなかにいれておくべきだと、
中島らもが年下のテレビマンに説教されている場面があった。
が、今月はそれどころのハナシではない。
サイフの中身が少なくというのは、実に心もとない。

僕がまだかけ出しのころは、本当に貧乏だった。
サイフのなかに
3万円を常に入れておくなどは夢のまた夢。
千円単位・百円単位のお金をいつもやりくりしていた。

忘れられないのは、
そんなかけ出し中の夏のある日のことである。
僕は新橋にある某出版社に用事があって出かけた。
まさに夏真っ盛りの暑い真っ昼間であった。

猛烈にノドが乾いていたのだが
僕のサイフの中身は
30円ぐらいしかなかった。
当時、僕は丸の内線の中野坂上に住んでいたので、
地下鉄の全線定期をもっていた。
これなら会社から支給される定期代と合わせ、
外出時の交通費で多少の儲けが出るだろうと考えたのである。

なので、新橋までの交通費の心配はいらなかったのだが、
それにしても
30円というのは情けなかった。

ジュースも買えないどころか、お昼ごはんも食べられない。

用事を済まし新橋の駅前に戻ってきたとき、
僕の目に移動献血車がおいでおいでとばかりに飛び込んできた。
献血をすれば冷たい飲み物も飲めるし、ビスケットだって食べられる。

僕は考えに考え、迷いに迷って、そのまま献血車の前を素通りした。

いまもときどき、このことを想い出すことがある。
そして、あのとき献血をしていたらと考える。


2007.06