キャロル「ファンキー・モンキー・ベイビー」


一昨日のこと。
ひょんなことから映画に出演してしまった。
まだクランクインして間もない映画なので詳しいことは省略させていただくが、
とにかく僕は映画の撮影現場で、カメラの前に立ったのである。

僕の役どころは、とあるパンクバンドのライブにやって来た観客。
まあ、早いハナシがその他大勢の
1人である(笑)

なので「タカハシカツトシ衝撃の銀幕デビュー」というような華々しいものではない。
のではあるが、チーフ助監督の計らいにより撮影前、
いっちょまえにヘアメイクさんに髪の毛をいじってもらった。
仕事柄、ヘアメイクさんの仕事ぶりを間近に拝見することは多いのだが、
実際に自分がやってもらったのはこれがはじめてである。

なんてったって撮影の設定がパンクバンドのライブである。
パンクといえば、僕はリアルタイムで
セックス・ピストルズもクラッシュもジャムも聴いていたのだ。
こちとら年季が違うのである。
若いパンク野郎に負けていられん!!などと勝手に意気込み、
僕はこりゃ役づくりのためにも髪の毛を逆立ててもらおうと考えた。

すぐさま、その旨をチーフ助監督とヘアメイクさんに伝えた。
僕の図々しい申し出にしばし考え込む
2人。
そしてヘアメイクさんが沈黙を破り、口を開いた。
「オールバックにしましょう」

図らずも突然、パンクバンドのライブの観客役を仰せつかった僕ではあるが、
もちろんそんな衣装は持ってない。
ちなみに一昨日の僕の服装は黒いシャツに黒い
Gパン、
それに濃いエンジ色のスエードっぽいジャケットであった。
なので急遽、僕はスタイリストさんから
黒いメッシュの
Tシャツと袖のないGジャン、
そして鋲のついた黒いリストバンドを手渡され、その場で着替えた。

そのいでたちのままで、髪の毛をオールバックにされたのだ。

髪の毛をいじってもらっている間、
僕はヘアメイクさんと
1980年代に一世を風靡した
通称「ダイエースプレー」について語り合っていた。
ダイエースプレーとは、
スーパーのダイエーで売られていたスプレーのことである。
思わず「そのまんまやないか
!!」とツッコミが入りそうなネーミングではあるが、
ダイエースプレーは当時のロッカーたちにとって、
まさに三種の神器といっても過言ではない、
それはそれは実にありがたいものだったのである。

ナニがありがたかったかというと、
ダイエースプレーがイチバン髪の毛の「立ち」が良かったのである。
ヘアメイクの方も懐かしそうに
「私もよく昔、買いに行かされてましたよ」と語っていた。

そうこうしている間に、
僕の髪の毛は見事になでつけられオールバックにされた。
読者よ
! 友よ!! 想像してみてほしい。
メッシュの
Tシャツに袖なしGジャン、
手首には鋲付きのリストバンドをしてオールバックにされた
42歳の男の姿を。

撮影に入る前、僕はトイレに行った。
そこではじめて、自分自身の姿を鏡で見た。
オールバックにされた僕の顔は、
パンクスというより「殺し屋」の顔をしていた。
そして、袖なし
Gジャン姿の僕は、
どう見てもキャロルの親衛隊にしか見えなかった。

キャロルとは、矢沢永吉がいたあのキャロルである。
キャロルは
1972年にデビューして75年に解散しているので、
僕はリアルタイムでのキャロルは知らない。
『ファンキー・モンキー・ベイビー』や『ルイジアンナ』など、
キャロルの代表曲を知ったのは中学生になってからである。

中学生の当時、僕が通っていた学校にも矢沢永吉のファンがたくさんいた。
しかし、僕はどうも矢沢永吉の音楽にどっぷりつかることはできなかった。
もちろんいいなと思う曲もあったし、
当時ベストセラーになった矢沢永吉の自伝“成りあがり”も読んでみた。
が、矢沢永吉というアーティストに夢中にはなれなかった。

なぜか? その理由ははっきりしている。
僕はリーゼント
&革ジャンに代表される、
「矢沢永吉的なもの」がまず好きになれなかったのである。
それから矢沢永吉というアーティストを信奉している、
まわりのヤツらが大嫌いだったのである。

中学時代の同級生にウジイエというヤツがいた。
ウジイエには兄がいて、その兄は地元でも評判の不良だった。
ウジイエは兄の威光もあって、
中学
1年生のときから学校で一目置かれる存在であった。
いつも小学校時代からの仲間数人とつるんで偉そうにしていた。

僕が通っていた中学校は、3つの小学校から生徒がきていた。
たしか全校生徒数は
1,000人ぐらいのマンモス校であった。
生徒の構成比率でいうと、
ウジイエたちが卒業した小学校からの生徒が
45%
別の小学校からの生徒が
45%
そして僕が卒業した小学校からの生徒が
10%であった。
おまけに全生徒数の約
90%を占める2つの小学校は町の中心部にあったのに対し、
僕が卒業した学校は町のはずれにあり、
まわりには田んぼや畑もたくさんあった。
町の外れの田舎にある少人数の小学校卒業、
ただそれだけの理由で僕らは中学校で差別され、バカにされた。
僕らが卒業した小学校の名前で「あいつは○○だからな」といわれたのだ。


後に、いわゆる部落問題ということを知ったとき、
僕はまさに中学時代の悔しさを思い出さずにはいられなかった。
ただ、そこに生まれたというだけで差別される人の痛みを、
少しだけかもしれないが、それでも僕も痛いほど感じずにはいられなかった。

ウジイエは先頭を切って僕らを差別した。
当然のごとくケンカになる。
何度も僕はウジイエと、その仲間たちと、やったりやられたりを繰り返した。


このウジイエたちが大の矢沢永吉ファンで、
「永吉」という刺繍を入れた揃いのスタジャンを着て
町中を偉そうによく歩いていた。
僕は群れることのカッコ悪さを、このときに知った。

ちょうど昨日、
渋谷にまたまたエンケンこと遠藤賢司のライブを観に行ってきたのだが、
エンケンも
MCで日本人について語っていたとき
「なんで群れるんだろうね。きっと群れてないと不安でしょうがないんだろうね」
ということをいった。
僕は自分の人生観について、
エンケンから「大丈夫、間違ってないよ」とお墨付きをもらえたようで、
とても嬉しかった。

中学を卒業し、僕とウジイエは別々の高校に進学した。
風の噂でウジイエは入学してすぐに退学になったという話を聞いた。

高校1年生の春休み、僕はたまたま地元の駅でウジイエを見た。
すぐにウジイエも僕に気づいたようで、僕に近づいてきた。
ここで会ったが
100年目!!
中学時代の遺恨を2人っきりで一気に晴らしてやろうかと考えていたら、
ウジイエは「どこに行くんだよ」と気やすく声をかけてきた。
そして、セブンスターを僕に差し出した。
僕はどんなに腹立たしい奴であっても、
こういう態度に出られると素直にそれを受ける。
僕はありがたく受け取り、ウジイエに火をつけてもらった。

1人っきりのウジイエは、中学時代とは打って変わって、
僕にいろんなことを話しかけてきた。
駅の隅っこでタバコを吸いながら、
僕らはまさに元同級生同士で話を弾ませた。

ウジイエと別れたあと、
中学時代の態度とは別人のようたったウジイエについて、
アイツはあいつなりに自分の立場を守るために精一杯イキがって
僕につっかかっていたのかなと思った。
そして、アイツも大人になったんだなと、しみじみ思った。

のだが、話はここで終わらない。

その後、20代の半ばになってウジイエは小学校時代からつるんでいた仲間たちと、
プールバーを開店させたという話を風の噂に聞いた。
行ってみようとは思わなかったが、運命とは皮肉なものである。
たまたま地元で中学時代からの友だちと飲んでいたら、
ウジイエたちがその店に入ってきた。
僕らを見るなり、ウジイエは芝居がかった声で「おー、○×」「やー、△▽」と
僕と一緒に飲んでいた名前を
1人ひとり呼びはじめた。
そして、僕を見てウジイエは「えーっと、誰だっけ」とわざとらしく言い放った。
瞬間的にムカッときた僕は
「いつまでもガキ大将気取りのまんまか
!? ダッセエなオメーはよぉ!!」といって、
すぐさま戦闘モードに入った。

以来15年以上、ウジイエとは会っていない。
風の噂も聞かなくなった。
しかし、である。またいつの日か、再会するときがあるかもしれない。


なんてったって、僕がいくらひょんなことからとはいえ、
映画に出演してしまう世の中なのだ。ナニがあっても不思議ではない。

そのとき、果たしてウジイエは僕にどんな接し方をしてくるのだろうか。
実に楽しみである。


2008.03