B.J.トーマス「雨にぬれても」


市川崑監督の訃報を知ったのは、昨夜7時前のことだった。
そらジローの天気予報を見ようと日テレのニュースを見ていたところ、
最後に報じられたのである。

“犬神家の一族”“細雪”“ビルマの竪琴”をはじめ、
数々の名作で知られる市川崑監督であるが僕にとって市川崑監督といえば、
やはり“木枯し紋次郎”抜きに語ることはできない。

いまから15年ぐらい前のことだと思うが、
当時テレビ朝日系列で放映されていた“驚きももの木
20世紀”という番組で、
“木枯し紋次郎”と“必殺シリーズ”の誕生秘話が取り上げられた。
子どもの頃から大の紋次郎ファンで、
かつ必殺マニアの僕はその放送をビデオに録画し、何度も観た。
番組には藤田まことがゲストで出演していた。
もちろん紋次郎を演じた中村敦夫さんや崑監督のインタビューも放映された。

何度観ても飽きない実に観どころの多い番組であったのだが、
なかでも面白かったのは“木枯し紋次郎”の主題歌
『だれかが風の中で』の作曲を手がけた小室等のインタビューだった。

“木枯し紋次郎”の主題歌づくりを依頼された小室等はさっそく崑監督のもとに出向き、
どんな曲にすればいいのかをたずねたという。
しかし崑監督は、そんな小室等に対し
「それはプロであるあなたにおまかせします」と答えたそうだ。
時代劇の主題歌などつくったことのない小室等は、
なんとか少しでも曲づくりのヒントをもらおうとさらに粘ったところ
「僕は音楽のことはよくわからないけど、
好きな曲というのなら答えられるよ」といってくれたという。

その曲が、バート・バカラック作曲によるB.J.トーマスの『雨にぬれても』、
映画“明日に向かって撃て”の挿入歌である。

それを聞いた小室等は
「あの曲はバート・バカラックという音楽界の巨匠が書いたもので、
そんな曲は僕にはつくれない」といったそうだ。

そんなやりとりを経てできたのが『だれかが風の中で』。
番組のなかで小室等はギターをつま弾きながらまず
『雨にぬれても』の冒頭の有名な一節
Rain drops falling on my head♪」(作詞:ハル・デヴィッド)を唄った。
そしてそのコード進行のまま今度は『だれかが風の中で』の唄い出しの部分
「どこかでだれかがきっと待っていてくれる」
(作詞:和田夏十)を唄い、
照れ笑いを浮かべながら「まあ、盗作といわれても仕方ないのですが」と語っていた。

『だれかが風の中で』の作詞を手がけた和田夏十さんは、
崑監督の奥さまであった。

有名な話であるが、
そもそも“木枯し紋次郎”は崑監督が
映画製作の資金づくりのために手がけたドラマである。
そのためギャラの安い新人俳優を使おうということになり、
敦夫さんが抜擢された。
さらに敦夫さんが抜擢された背景には、
背が高くて顔が長いという条件もクリアしていたことが挙げられる。
これは紋次郎が大きな傘をかぶり、
長いマントのような合羽を着ていたため、
顔が丸いと顔が傘に隠れてしまい、
背が低いと合羽姿がちんちくりんになってしまうという事情があった。

敦夫さんは紋次郎に起用されたことについて
「顔が長くて、背が高くて、ギャラが安いという
3拍子を備えていたのが僕だった」と
よくギャグにしていた。

映画の資金づくりというなかばアルバイト感覚の仕事ではあったが、
崑監督のリアリズムは徹底していた。
その最たるものが殺陣である。
それについて崑監督は“驚きももの木
21世紀”のなかで
「僕もいろいろ調べたんですが、渡世人というのは名刀を持っているわけがない。
斬り合いになって相手と刀を合わせたら折れてしまうような刀しか持ってなかったんです。
だから斬り合うのではなく刀で刺す、あるいは殴りつけるような演出した」
というようなことを語っていた。

僕も子どもの頃から現在に至るまで数多くの時代劇を観てきたが、
紋次郎の殺陣はたしかにそのどれとも違っている。
いったん相手に背を向けて走り出し一定の距離を保った後、
突如として
Uターンし相手を差したりなで斬りにしたりという
アクション映画のような殺陣はいま観ても斬新だ。
崑監督のこだわりが見事に結実した、日本のドラマ史上に残る名演出だと思う。

崑監督については、1つだけ個人的な想い出がある。
昨年
620日の日記と若干重複するのだが、
2000年に公開された映画“新撰組”の自主上映会を
「新撰組のふるさと」日野市で開いたときのことである。

すべての段取りを終え上映会の開催が正式に決定したとき、
この上映会を企画するにあたって、
いろいろと相談に乗ってくれていた敦夫さんのマネージャーに僕は無謀にも
「崑監督に来てもらえないですかね」と聞いた。
もちろんお支払いできるギャラなどない。
しかし、渋谷の小さな劇場で単館公開された“新撰組”を
1人でも多くの人に観てもらいたくて自主上映会を企画した僕らの志を、
崑監督ならわかってくれると思ったのである。

そんな僕に対して敦夫さんのマネージャーは
「崑監督は足もだいぶ不自由になられていて、
いまはほとんど京都にいらっしゃるみたいだから難しいと思うよ」と
静かにアドバイスしてくれた。

ならばせめて自主上映会を開くことを崑監督にお報せしたいと思い、
崑監督に手紙を書いた。
そして手紙の最後に「当日会場にいらっしゃった方たちへ
何かメッセージをいただけたら幸いです」と書いた。

数日後、崑監督の事務所の方から電話があった。
なんと「メッセージを贈りたいのだが
どんなことを書いたらいいのか」と崑監督がおっしゃっているという。
僕は驚きと喜びが入り交じった興奮状態のなか、その電話に応対した。

さらにその数日後、崑監督から本当にメッセージが届いた。
メッセージはワープロ打ちされていたが、きちんと崑監督の署名がされていた。
その書体を見て、僕はさらに驚いた。
封筒のあて名と同じ筆跡なのである。
崑監督は、わざわざ自筆で僕宛ての住所を書いてくださったのだ。

その封筒を見ながら僕は、
やはり崑監督は僕が思っていたとおりの素晴らしい方だと涙した。

日本を代表する監督であるだけでなく、
世界にもその名を知られる映画界の巨星が、
いち映画ファンの勝手な申し出に快く応えてくれた。
映画を愛し、生涯を映画とともに生きた崑監督らしいエピソードだと思う。

僕は崑監督が与えてくださったこの体験を生涯忘れない。

崑監督、本当にありがとうございました。

奇しくもこの週末からバート・バカラックは来日公演を行います。
監督が大好きだった『雨にぬれても』も、きっと演奏されるでしょう。


合掌

2008.02