ビリー・プレストン「マイ・スイート・ロード」


今年ももうすぐ1129日がやってくる。
ジョージ・ハリソンの命日である。

ジョージ・ハリソンが亡くなったのが2001年。
あれから
7年か・・・。

ジョージが亡くなる約1か月前、
河出書房からジョージのムック本が発売された。
1979年当時のジョージの珍しいインタビューをはじめ詳細な資料も満載の、
ジョージを愛する者の
1人としてなかなかうれしい一冊であった。

この本のなかに中島らもの一文が載せられていた。
この文中で中島らもは
「ジョージはしょうもない曲も多いが素晴らしい曲もつくっている」として
『すてきなダンス』について触れていた。
しかし、この曲はジョージのオリジナルではない。
ジョン・レノンが書いたのだ。
作家たるもの「勘違いしてました」で済ませられるハナシではない。
しかもジョージについて、ジョージの特集本で書いているのである。
そして読んでいるこちとらは筋金入りのジョージファンなのだ。

僕のなかで中島らもの評価が、
この一文によって大きく下落したことはいうまでもない。


中島らもはずっと大好きな作家ではあったが、
晩年は自らの著書であれほど「日本で吸う奴はバカだ」と書いていた
大麻の不法所持で逮捕されるなど、
どちらかといえば失望させられることが多かった。
死後、発売された“酒気帯び車椅子”に至っては、
僕のなかでは史上最低のバッドテイスト小説である。
この本だけは
2度と読む気がしない。

中島らもが亡くなったのは2004726日である。
716日未明に神戸市内の飲食店の階段から落ち、
全身と頭を強打したことによって意識不明が続いていたのだが、
懸命の治療にもかかわらず自発呼吸すら困難な状態に陥ったことから
26日の朝、
以前からの本人の希望に基づき人工呼吸器を停止した。
52歳であった。

酔っぱらって階段から落ちて、死ぬ。
いかにも中島らもらしい最期であったと思う。
そして、これまた生前からの本人の希望により葬式は執り行わず、
身内と近親者のみで密葬を行い、遺骨は夫人の手で散骨された。
お墓はない。

晩年の中島らもについては手厳しい評価の僕ではあるが、
この中島らものあっぱれな死に様には憧れる。
僕もお葬式はしないでほしい。
戒名もお墓もいらない。
遺骨は川に流してほしい。
そして、お葬式のかわりに僕が好きだった音楽を聴きながら、
それぞれの人がそれぞれの場所で僕のことを偲んでくれたらうれしいなと考えている。

まず最初にかけてほしいのが、ドアーズの『ジ・エンド』である。
これは昔から決めていた。
そして、最後の
2曲も決めている。
ジョージ・ハリソンの『オール・シング・マスト・パス』に続いて
『マイ・スイート・ロード』をかけてほしい。

『オール・シングス・マスト・パス』はビートルズ解散後に発表された、
ジョージの
3枚組アルバムのタイトルチューンである。
「すべては去り行く」という世の無常観を唄った名曲だ。
もともとこの曲はビートルズ時代に書いた曲だが、
ポール・マッカートニーによってボツにされたといわれている。

『マイ・スイート・ロード』はゴスペル調をベースに
ジョージの信仰心を歌にしたもので、
同じくアルバム“オール・シングス・マスト・パス”に収録され、
2000年にこのアルバムがリイシューされた際には、
新たにレコーディングし直されている。
ジョージの死後発売された追悼盤には、
オリジナルバージョンと
2000年バージョンが収録された。

『オール・シングス・マスト・パス』も『マイ・スイート・ロード』も、
時代を超えて唄い継がれるであろう名曲だと僕は思っている。
1000年前に唄われていたとしても不思議ではなく、
100年後にも通用するであろう普遍的なテーマの歌だからだ。

ビートルズといえばジョン・レノンであり、ポール・マッカートニーである、
というのが大方の見方である。
それは否定はしない。
この
2人に比べ、ジョージに対する大半の人の評価はさほど高くはない。
が、いまそうだからといって未来永劫そうであるとは限らない。

ひょっとしたら100年後には、
ジョージの評価はジョンやポールを超えているかもしれないのだ。
22世紀の世の中では、ジョンの『イマジン』よりも
ジョージの『オール・シングス・マスト・パス』が熱心に聴かれているかもしれないと
僕は真剣に考えている。

100年たったら帰っておいで。100年たったらその意味わかる」とは寺山修司の言葉であるが、
ジョージの歌にはまさにそんなことを感じるのである。

ジョージは20011129日の午後1時半、
ロスアンゼルスで亡くなったとされている。
日本時間の
1130日午前6時半である。

遺体は荼毘に付され、遺骨はガンジス川に散骨されたという。
ジョージのお墓もない。

ジョージが亡くなった翌年の1129日、
ロンドンのロイヤル・アルバートホールで行われた
ジョージの追悼コンサート“コンサート・フォー・ジョージ”で
『マイ・スイート・ロード』を唄ったのがビリー・プレストンである。

ビリー・プレストンは1946年生まれで、
10歳のころから教会でゴスペルのオルガン奏者として
音楽家としてのキャリアをスタートさせた。
16歳のころにはキーボードプレーヤーとしてレイ・チャールズ、
リトル・リチャード、サム・クックといったロックンロール音楽の歴史に
燦然とその名を残す大物ミュージシャンのバックバンドで活躍していたが、
ビリー・プレストンを一躍有名にしたのは
やはり
1969年に行われたビートルズのいわゆる
「ゲット・バック・セッション」への参加であろう。
このときビリー・プレストンを誘ったのが、他ならぬジョージである。

『マイ・スイート・ロード』はもともとビリー・プレストンに提供された曲で、
ジョージとの共同プロデュースにより
1970年に発表された
アルバム“エンカレッジング・ワーズ”に収録されている。

ビリー・プレストンにとってジョージとの出会いは、
後の彼の音楽人生に多大な影響を与えたであろうことは想像に難くない。
“コンサート・フォー・ジョージ”における
ビリー・プレストンの『マイ・スイート・ロード』は、
彼のジョージに対する敬愛の念があふれんばかりの、
まさに名演中の名演であった。
その模様は
YouTubeでも観ることができるので、興味がある人は探してほしい。


残念ながらビリー・プレストンも、もうこの世にはいない。
腎臓を患い移植手術を受けたが快方には向かわず、
3年前の11月ごろから意識不明に陥り、翌2006年の66日に亡くなった。
59歳であった。

今年の1129日、僕は花園神社の三の酉に出かける予定だ。
例によって見世物小屋を観に行くのである。
ヘビ女のお峰太夫をはじめ大寅興行の皆さんとは
1年ぶりの再会である。
見世物小屋見物はジョージの追悼同様に僕の大切な
11月の恒例行事なのだ。
今年は一の酉も二の酉も行けなかったので、いまからとても楽しみにしている。

30日は東京競馬場にジャパンカップを観戦しに行こうと考えている。
今年のジャパンカップには一昨年の日本ダービーを制したメイショウサムソン、
昨年のダービー覇者・ウオッカ、そして今年のダービー馬・ディープスカイが揃って出場する。
なんでもダービー馬
3頭が同一レースで対決するのは史上初という。
なんとも豪華な顔ぶれではあるが、その分予想は難しい。
ここはジョージ・ハリソンが主宰していたレコードレーベル
「ダークホース」にあやかって穴馬狙いでいってみようかなどと考えている次第だ。

見世物小屋も楽しみだし、ジャパンカップもまた楽しみではあるが、
やはり
1129日〜30日というのは僕にとってジョージ・ハリソン追悼の日である。

ジョージが亡くなった翌年の2002年以降、
毎年
1129日の午後1時半と30日の朝6時半に、
ジョージが亡くなったとされるロスアンゼルスの方角に向かって
僕はジョージを偲んできた。
2002年の1129日は、
新宿伊勢丹の屋上から東の空を見上げていたことを憶えている。
よく晴れた日で、青空に白い雲がきれいに浮かんでいた。
まるでジョージの『ディス・イズ・ラブ』のプロモに出てきたような
それはそれは美しい風景だった。

今日は雨でめちゃめちゃ寒かったが、
できればこの週末はスカッと晴れてほしいものだ。
やはりジョージには、太陽が似合う。


2008.11