ベートーヴェン「歓喜の歌」


今日は大晦日。
そんな大晦日にふさわしいニュースをひとつ。
映画“歓喜の歌”の公開に併せて、
世界中から『第九』の音源を集めたコンピレーション
CDが来年123日に発売される。

タイトルは“歓喜の歌 〜第九のすべて”といい、価格は2,000(税込)である。

このCDにナント、我らがエンケンこと遠藤賢司が唄う『喜びの歌』が収録されている。
エンケン版『歓喜の歌』が最初に収められたのは、
1972年に発売された“嘆きのウクレレ”というアルバムであった。
今回収録されているのは
1980年に発売されたアルバム
“宇宙防衛軍”に収められているバージョンである。

 見よ一筋の光さえ閉ざしてしまう

 裏切られて悲しみにくれた眼を

 見よ信じまいと笑う僕等の上に

 怒りの刃が打ちおろされんとす

 

 全ての生物は僕等を噛み砕かんと

 復讐の眼を光らせ心中をせまる

 天地は僕等を同化せんものと

 大地は僕等を呑み込まんとす

 

 優しきものほど怒りは大きいもの

 その怒りが一つの優しさをも

 消し去った時にはもう終わり

 さあ今こそ歌おう歓喜の歌を

この歌詞はエンケンがつくったオリジナルである。
ボブ・ディランの『ライク・ア・ローリング・ストーン』を聴き、
エンケンが「よし
! オレも唄おうと思った」というのは有名な話であるが、
エンケンはそのボブ・ディランの代表曲のひとつ
『ミスター・タンブリン・マン』をも
自分の作詞によりカバーしている。

日本のロックンロール音楽の歴史をひもとくと、
「日本語でロックは唄えるか否か」という、
いわゆるロック日本語論争というのが
1960年代の末から70年代初頭にかけて交わされていた。
内田裕也さんを筆頭とする
「ロケンロールは英語じゃなきゃダメだぜ、ベイビー。ヨロシク」という意見に対し、
はっぴいえんどを中心とした裕也さんたちより
1世代下のバンドが
日本語によるロックのあり方を提示した。

僕がこんなことをいってはナンだが、実に不毛な論争だと思う。
何語で唄おうがロックはロックである。
僕が論ずるとすれば、
それが「唯一無二のオリジナルであるか」ということを論じたい。

日本で最初のロックバンドといわれているジャックスは、
「僕らは待ちきれずに唄い始めた。
テクニックなんて覚えているヒマはなかった」と語っていた。
ジャックスの音楽は、まさに唯一無二のオリジナルであった。
唄いたいという想いが、そのまま噴き出したような迫力がある。
その迫力の前には、テクニックなんてものは必要ない。
想いをありのままに表現するだけで、しっかりと人に伝わる。

ジャックスが活動していた1968年前後、
ジャックスのような存在は日本の音楽シーンにはなかった。
ようするにこの頃の音楽の主流は、
GSと歌謡曲とフォークであったのだ。
GSはエレキギターで演奏するが、オリジナル曲を演奏するバンドはほとんどなかった。
逆にフォークはオリジナル曲を唄ってはいたが、エレキギターではなかった。
そんな音楽状況のなかで、ジャックスだけが唯一、
エレキギターでオリジナルソングを演奏していたのだ。

しかし、その異端的な音楽性のため、ジャックスには演奏する場がなかった。
それでジャックスは自ら
「ジャックス・ショー」と銘打ったオリジナルコンサートを定期的に開催するようになる。

このジャックス・ショーにゲストで出演していたのが、
若き日の遠藤賢司である。

3日前の28日、エンケン今年最後のライブに行ってきた。
このライブでもエンケンは
1人でハードロックをやってやろうと思っていた」ということを語っていた。
エンケンというとフォークというくくりで語られがちだが、
エンケンはデビュー当時からジャンルやスタイルを超越した、
オリジナルの存在だった。
それは、デビューから
38年を迎えようとしているいまも何ら変わらない。

28日のライブでエンケンは体調が悪そうだった。
声が出づらそうだったし、曲の間には何度も鼻をハンカチで拭っていた。
しかし、エンケンはエンケンらしく、
たった
1人でいつもと変わらぬパワフルなパフォーマンスを披露してくれた。

アンコール。
いつものように『夢よ叫べ』を唄いきったあと、
エンケンは歌舞伎役者ばりの大見得を切りながら、
ノシノシとステージを降りて行った。
僕は最前列に座っていたので、
ステージ脇の楽屋に入って行くエンケンの姿を見ることができた。
エンケンは楽屋に入るなり、精魂尽き果てたように、
ドタッと楽屋のソファーに倒れ込んだ。

そのエンケンの姿に僕は、プロフェッショナルとしてのあり方、
いや壮絶なまでの生き方を見たような思いがした。

元旦、佐野(元春)くんのステージからはじまった2007年。
公私ともにいろいろとあった
1年だったが、
僕のなかではとても充実したいい
1年だった。
これまでの人生のなかで、もっとも充実していた
1年といっても過言ではない。
来年の今日もこんな風に、いや今年以上に充実した
1年だったと思えるように、
明日からも
11日を重ねていきたい。


目指すは、唯一無二のオリジナルである。

2007.12