バンザイ「チャイニーズ・カンフー」


昨日の朝日新聞の夕刊に
プロレスラーの「白覆面の魔王」ザ・デストロイヤーと
「人間風車」ビル・ロビンソンの記事が載っていた。
かつてはプロレスの世界チャンピオンを志した僕である。
この記事に反応しないワケはない。

記事によるとザ・デストロイヤーは
元マチュアレスリングの選手で現在、町田市で道場を開いている
木口宣昭氏の発案でスタートした日米親善少年少女レスリング大会に
アメリカチームを率いて今月来日したという。

ザ・デストロイヤーは小学5年生のときに父親と一緒に観に行った。
試合前、会場でザ・デストロイヤーは
「いらっしゃい、いらっしゃい」と陽気な声を張り上げ、
サイン入りの白覆面を売っていた。
めったに僕にものを買ってくれなかった父が
「欲しいか」と聞いてきたので僕は大きくうなずいた。
そして父親から
2千円をもらい、
ザ・デストロイヤーのもとへとかけつけた。

ザ・デストロイヤーの隣では
ジャイアント馬場が悠々とイスに座りながら葉巻を吸っていた。

僕はザ・デストロイヤーからマスクを手渡され、握手してもらった。
その手は、それまで触れた誰の手よりも大きくがっしりしていた。


昨日の朝日新聞の記事でザ・デストロイヤーは
「男の子らが取っ組み合いをしなくなったね。
体をぶつけあう原始的な遊びも大切なのに」とコメントしていた。


僕が子どもの頃、大好きだったのがプロレスごっこである。
よく放課後、体育館にマットを敷き、
同級生はもとより上級生・下級生たちと一戦を交えていた。
それが高じて、チャンピオンベルトをプラモデルの箱を利用して手づくりし、
ベルトをかけてタイトルマッチを行うようになった。

もちろん本気で闘うといっても、おのずと限界がある。
プロレスの技はかける側とかけらわる側の呼吸が合わないと無理である。
そこで僕らは本気で闘いつつも、
攻めどころ攻められどころをしっかりと理解し遊んでいた。
だから、どんなに荒っぽい技をつかって遊んでいても
誰一人としてケガをしなかった。

僕らのプロレスごっこは、
シングル戦もあれば、タッグマッチもあった。
このタッグマッチで僕とコンビを組んでいた同級生が
いちばん好きだったレスラーがビル・ロビンソンである。

ビル・ロビンソンはいかにもイギリスのレスラーらしく、
試合前花束を贈呈する女性の手をとりキスをするなど
紳士然としたふるまいがカッコよかったものだ。
レスリングスタイルもクリーンで、
かくいう僕も大好きな選手の一人であった。

当時の僕のプロレスヒーローといえば、
アントニオ猪木であった。
このアントニア猪木とビル・ロビンソンの試合は、
いまもプロレスファンのなかで語り継がれている名勝負である。
その試合を見てレスラーを志した人が、
昨日の朝日新聞夕刊で紹介されていた。

元プロレスラーの宮戸優光氏である。

宮戸氏は自分のジムを立ち上げる際
「あなたの高い技術を次の世代に残すため、
新しくつくるジムで指導してほしい」と、
かつて宮戸氏自身も指導を受けたビル・ロビンソンに申し出たという。

ビル・ロビンソンは1985年、
47歳で引退した後アメリカでコンビニの店長や
ホテルのガードマンをしていたという。
宮戸氏の申し出を快諾したビル・ロビンソンはいま、
高円寺に住み、後進の指導にあたっているという。

僕がザ・デストロイヤーと握手してもらったとき、
ビル・ロビンソンもちょうど来日中であった。
この日、ビル・ロビンソンは同じく来日中であった
「仮面貴族」ミル・マスカラスとタッグを組みリングに上がった。
この試合の模様はプロレス雑誌にも掲載されたぐらいだから、
きっとマスカラス
&ロビソンのタッグチームは
この日一夜限りの夢のタッグであったに違いない。

その場に居合わせられた幸せを、僕はいまもしっかりと憶えている。

人を人とも思わない凶悪な犯罪が、この数日も報じられている。
いつから日本はこんな国になってしまったのだろうか。
ザ・デストロイヤーが語るように、
体をぶつけ合う原始的な遊びを子どもたちがしなくなったことも
要因のひとつではないかと僕は考える。
体をぶつけ合い、相手の息づかいや体温を感じながら遊ぶなかで、
やっていいこととこれ以上はしちゃいけないことを
子どもは学ぶのではないかと思うのだ。

1976年、ビル・ロビンソンが来日していた際、
入場テーマ曲として使われていたのがフランスのディスコグループ
「バンザイ」の『チャイニーズ・カンフー』である。
もともとはジャンボ鶴田のテーマ曲であったのだが、
なぜかこのときはビル・ロビンソンのテーマ曲として使われた。

実にノーテンキなバカ音楽ではあったが、
不惑の
40を過ぎたいまも妙に耳に残っている。

やはり少年少女時代の原体験は大事なのだ。

2007.08