バッヂ「A列車を飛び降りろ」

今日から仕事始め。
僕が勤務している会社は、神田明神の参道沿いにあるので、
ミーティングのあと、社員全員でお詣りにいった。

神田明神は平将門さんを祀る神社であるとともに、
商売繁盛の神様として知られている。
昨日の夕方のニュースでもその混雑ぶりがとり上げられていたが、
今日の混雑ぶりも相当なものであった。

お詣りしたあと、お神酒を頂戴したのだが、
日本酒がほとんど飲めない僕は、ひと口飲んだだけで顔がほてってしまった。


僕は基本的には、お酒はビールしか飲まない。
ビールならリッター単位で飲める。
だから、僕はお酒が好きというよりも、
飲み物全般のなかでビールが好きなのだと公言している。


そんな僕ではあるがバーボンだけは別格で、たまに飲む。
僕がバーボンをはじめて飲んだのは
18歳の秋であったが、
もちろんそれ以前からは知っていた。
ジュリーの『勝手にしやがれ』の一節
「バーボンのボトルを抱いて 夜更けの窓に立つ」
(作詞・阿久悠)を聴いてである。

その当時は、将来絶対にお酒を飲む大人にはならない、
と決めていたので、別に憧れはなかったのだが、
中学
2年生のとき悪い同級生にお酒を教えられてから、
バーボンは“いつかは飲みこなしたい”憧れのお酒となった。


その背景にはローリング・ストーンズの
キース・リチャーズの存在がある。

1983年の夏休み、僕は新宿歌舞伎町の映画館で
ストーンズの全米ツアーの模様を収めた映画
Let’s Spend The Night Together”を
一日中+オールナイトで観ていたことがある。

まだ
MTVの番組も少なく、
いまのようにロックの映像ソフトもほとんど市販されていない時代だったので、
動くストーンズが見られるというだけで、僕はいさんで映画館へ出かけた。
Under My Thumb”のイントロが流れ、
ステージのカーテンが開き、色とりどりの風船が大空に舞い上がり、
ミック・ジャガーとキースとロン・ウッドがステージの前方へと出て行く。

このオープニングを見ただけで、僕は不覚にも涙を流した。

映画のラスト、演奏を終えたキースが
ボトルのウイスキーをラッパ飲みする姿がなんともカッコよく、
おーオレもバーボンの似合う男になりたいものだ、と思ったものだ。

加えて、原田芳雄さんの存在も忘れてはならない。
原田芳雄さんといえばバーボン、
バーボンといえば原田芳雄さんというぐらいに、
僕のなかでは原田芳雄さんとバーボンと切っても切り離せない。

僕が唯一観にいった原田芳雄さんのライブでのこと。
最前列のお客さんがステージにポンとワイルド・ターキーのボトルを置いた。
芳雄さんは、さっそく栓を開け、ひと口飲むと、
「みんなでまわせ」といって客席に差し出した。

その一連のふるまいが実にカッコよく、いまでもすごく印象に残っている。

カッコいいオトコは、バーボンを飲む。
18歳のタカハシ少年はそう思い込み、
少しずつバーボンの飲み方を練習した。
それが
1984年秋のことである。

最初はストレートでなどとても飲めず、
サイダーで割って飲んでいた。
それから少しずつ水で割り、
水の量を徐々に減らし、
ロックで飲めるようになったときは、本当にうれしかった。
これでオレも大人の仲間入りだと思った。
はじめてキスしたときなんかよりも、
それはそれはうれしい気分であった。

この時期、よく聴いていたのが、
ザ・バッヂの『
A列車を飛び降りろ』というシングル盤である。
ザ・バッヂはまさに和製“
The JAM”というべきバンドで、
僕はいっぺんに好きになった。

1983年の夏に出たアルバムもよく聴いたものだが、
この『
A列車を飛び降りろ』と同時期に出たミニアルバム
“ロンドン・パラダイス”はもっとよく聴いた。

残念なことにザ・バッヂは、
そのすぐれた音楽性に比べ、大きな商業的成功を収めることなく
1986年に解散してしまったが、
過去の音源をリマスターしたものや未発表曲を集めた
CD
ここ何年かの間に発売されている。

リアルタイムでザ・バッヂの音楽性に魅せられた1人として、
ここ数年間におけるザ・バッヂの再評価の流れは、とてもうれしい。

ザ・バッヂを聴きながらバーボンを飲む訓練をしていた少年も、
来月は
41歳の誕生日を迎える。
原田芳雄さんやキース・リチャーズが
41歳の頃に比べても、
そのカッコよさの前には僕なんかまだまだである。
日々、健康でオトコを磨くぞ
!!なんて、
仕事始めの日に、仕事もせずにこの文章を書きなぐった
200715日の僕でした。


2007.01