BaBe「アイ・ドント・ノウ」

今朝は4時半に目が覚めてしまった。
まだ涼しいうちから
1日がスタートするのだ。
我ながら実に健康的な生活である。

朝、じっくり新聞を読んだあと、
CSで再放送中の“独眼竜政宗”を観るという生活が
すっかり定着しつつある今日このごろだ。

“独眼竜政宗”が放送されていたのは1987年、
いまから
20年前である。
そのころ僕はまだまだ駆け出しのコピーライターで、
主に新宿西口に本店があるカメラ量販店の
CMなどをつくっていた。
世はまさにバブル真っ盛りではあったが、
僕は派手に使えるお金もなく、日々地味に広告づくりをしていた。

いまはさほどではないかも知れないが、
当時の広告業界というのはまさに花形職業であった。
で、僕がコピーライターだというだけで、
なんかすごい煌びやかな世界にいる人に会ったかのような顔をされたものだが、
実際はそんなものはその人の勘違いであって、
やっていることは努力と忍耐力を要するものだった。

コピーライターという職業に対してイメージアップというか、
幻想を抱かせるキッカケとなったのはやはり糸井重里氏の存在であろう。
しかし断言できるが、糸井氏のような存在は稀であり、
多くのコピーライターはプロの広告屋として黒子に徹している。

そう、僕は広告屋は黒子であるべきだと思う。
広告が目指すべきことは、商品を有名にすることであって、
その広告の制作者を有名にするためではない。
広告屋を志す人たちのなかでも、
そこのところを勘違いしてこの世界に入ってくる人が多い。
そして結局は「こんなはずじゃなかった」といって、転職する。
僕はそんな人をいくつも見てきた。

また、広告業界に入った自分に満足してしまい、
その後の努力を怠りスポイルされていった例も数多い。
1987年ごろ、そんな人間が僕のまわりにもゴロゴロいた。

いわゆる業界モノのドラマが流行り出したのも
1987年ぐらいだったと思う。
その走りがフジテレビの“アナウンサーぷっつん物語”で、
そのあとを受けて制作されたのが
田原俊彦主演の“ラジオびんびん物語”である。

“アナウンサーぷっつん物語”はフジテレビを、
“ラジオびんびん物語”はニッポン放送を舞台にしたドラマだった。

僕は当時、ラジオCMの収録を
ニッポン放送の
3Fにあるスタジオで行っていた。
当時のニッポン放送の
3Fには「3ロビ」と呼ばれる喫茶コーナーがあり、
よくそこで打ち合わせをしていると
ドラマの撮影のため田原俊彦がうろちょろしていたものだ。

“アナウンサーぷっつん物語”の主題歌
『アイ・ドント・ノウ
』を唄っていたのがBaBeという女性2人組である。
たまたま昨日、
YouTubeで別の映像を観ていたところ、
この曲のプロモがあったので、ついつい見入ってしまった。

BaBe1990年、
メンバーの片方・二階堂ゆかりの妊娠・結婚により解散。
もう一人の近藤智子も
BaBe解散後しばらくはソロで芸能活動をしていたものの、
結婚により芸能界を引退したという。

二階堂ゆかりは
1967年の8月生まれで、
近藤智子は
1968年の2月生まれ。
2人とも
20年前のアイドル生活を経て、
どんな
20代・30代を送り、40代を迎えようとしているのか?
そんなことを昨日、
躍動感あふれる『アイ・ドント・ノウ
』のプロモを観ながら考えた。

つくづく思うのだが、
40代からこそが人生を楽しめる時期なのではないかと思う。
20代・30代なんて、いってみればその助走期間に過ぎない。
人生
40を過ぎてからが勝負なのだ。

20年前、華やかなアイドルスターだったBaBe2人は芸能界を去り、
普通の母や主婦となっている。
片や
20年前、毎日が華やかであろうと勘違いされていた駆け出しのコピーライターは、
いまだに広告屋としてまた新しい道へ進もうとしている。

20年…短い年月ではないが、過ぎてしまえば、さほど長くはない。
以前もチラリと書いたように、これまでの
20年間よりも、
これからの
20年が大切だと僕は思っている。
したいことはたくさんある。
それを
1つずつ実現していくのだ。
忙しくなるぞ。

今日も新しい仕事の打ち合わせのため、
恵比寿まで出かけてきた。
この仕事は
9月末のフィニッシュを目指し、
来週月曜日から本格的にスタートする。
もちろん、ほかにもやらなければならないことは山のようにある。

人生をエンジョイしつつ、
仕事もしっかりとこなしお金を稼ごうと思ったら、
いままで以上に時間はとても貴重なものになる。

そう考えると朝4時半に目が覚めてしまうのも、
実にいいことである。

早起きを「老人っぽい」などといってバカにしてはいけないのだ
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2007.07